翌日、すなわち金曜日。朝10時を回ったところで僕は伸びと共に欠伸をした。企画部の仕事場の机はそれぞれ仕切られているので問題ない。また、各々直通電話を持っていて、極端な話仕事の最中に私用で電話ができる。
昨日はあの後何事もなく品川と分かれたが、エルモアの話をしたことが悔やまれる。モニターとかはないのかなどいろいろ聞かれそうな雰囲気が漂い始めたのだ。何とかそのような話は出ないで済んだので安心したものの、考えてみたら彼女は僕の携帯電話の番号を知っているのだ。いつでも捕まえることが出来てしまうことになる。困った…。まさか着信拒否なんて真似はできないし。
こういうときに限って電話というものは鳴り出す、などと思いながらボーッと目の前の固定電話を見つめる。
プルルル…
「…!」
びっくりした。まさか本当に鳴るなんて思わなかった。椅子に座ったまま仰け反ったので音を立ててしまい、周りに変な顔をされた。
気を取り直してデスクの電話を見る。もしかして、品川? そんなはずない。ここの番号は知らない…と思う。
怖いが職場の電話で居留守も使うわけにいかないのでおそるおそる出た。
「はい」
「あ、俺」
二村の声だった。昨日ここの番号を教えておいたのだった。仕事の電話ならこちらに、と頼んだのでこれは仕事の電話だということになる。
「西、エルモアの創始者仲間は見つかったか?」
僕の名字が西。お忘れの方も多いと思うので念のため。
「あ、まだ。昼になってからにしようと思って」
「そうか。でもな、こっちは話がどんどん進んでるんだ。早くしてくれ」
この前はそんなに急いでいただろうか。もしかしたら簡単に1日足らずで見つかるとでも思っていたのだろうか。
「分かった。でもそんなに簡単に見つかるものじゃないぞ」
あ、いや、来週の火曜日までのはずだ。まだ平日は2日残されている。それでも二村は急いでいる様子だ。
「集まってから取材のアポを取るまでの時間を計算に入れてなかったんだ。だから急いで欲しいんだよ」
「おいおい、こっちだって暇なわけじゃないぞ。急に急げって言われても困るなぁ。…奢ってくれるなら考えないこともないぞ」
やっぱり僕の性格は悪くなっているようだ。美奈子が居ないからか、美奈子の言うような世渡り上手に成長したからなのか…。
「頼むからさぁ。…分かったそのうち奢る。それでいいな」
「じゃあ、火曜日にそっちからアプローチ出来るように探せばいいんだな?」
「あともう一つ。御得意様も紹介してくれないか?」
「ちょっと待てよ。そこまで面倒見切れるか。そっちで探してくれよ」
僕はちょっと強気な言い方をしてみた。僕がこういう言い方を出来る相手はそんなに多くはない。大学の時に美奈子に言われたのを思い出す。
「気が弱いって言うより、友達が少ないからそうなんじゃないの?」
確かにそうなんだと思う。
「何言ってるんだよマユ。お前なぁ、そっちはデパートじゃないかよ。普通のブランドと違って店舗を持って売ってるんだから、客の声を直に聞けるじゃないか」
そうかも知れない…。
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我ながら何と頭が悪いのかと情けなくなった。普通、雑誌の取材は広報を通して話が来るものだという至極当たり前のことに気づかなかったのだ。広報に相談しないで独断で取材を受けたら問題がある。とにかく受付に向かった。
受付では受付嬢がにこやかに僕を迎えてくれた。
「こんにちは」
「あ、こんにちは。えっとですね」
「はい」
「広報ってどちらでしょうか?」
社員が何を聞いているのか、という表情をされたらどうしようと内心びくびくしていたが、杞憂だったようで丁寧に案内してくれた。
「5階のエレベーター脇の通路を真っ直ぐ進んで右側の4つ目の入り口が広報部です」
「あ、すみません」
エレベーターに乗った僕は何で自分が受付嬢に謝ったのか考えた。すみませんじゃなくて、ありがとうございますと言うべきだろう。この癖は直しておこう。
5階に着いた僕は言われた通りに脇にある通路を進んで4つ目の扉を見た。汚い。広報部らしいといえば広報部らしいのだろう。扉が半開きなのでノックしないで開けようと手をノブに掛けた。そのノブがなぜか僕の方に押し返ってきて、突然その力が大きくなって扉が僕の額に。
「痛ッ!」
痛さに額を押さえると、その原因となった女性は更にドアを押して出てきて、
「とろとろしないっ。邪魔!」
と言って走り去ろうとした。ところが、その動きが止まって、
「あ、済みません! 広報部の新人かと思って…」
僕はその女性の顔を見て、女性のほうは僕の顔を見て同時に声をあげた。
「木島さん!」
「西君じゃない!」
彼女、木島さんは同期でありエルモアの創始者仲間だった。労せずして一人見つけたのだ。
木島さんは既に広報の一つのチームのチーフをやっていて僕などより遥かに活発に仕事をこなしているようで、僕を広報部の部屋に招き入れてくれたのだが、応接スペースに待たされて10分ほど彼女の動きを見ていると非常に颯爽としていて時には僕にスタイルの似ている新人と思われる人に檄を飛ばしていた。その様はガツガツしているようでもあるけれど、それよりは歯車が気持ちよく回転している雰囲気の方が強くて充実しているんだろうな、という羨望を僕は抱いていた。確か組んでいたときは、僕が言うのも変だけど彼女はちょっと気弱そうな雰囲気があったのだが。
「ごめんね西君。待たせちゃって」
ちょっとうつらうつらしていると木島さんが目の前にいた。
「寝ちゃってたのね。ほんとごめんなさいね」
恥ずかしい…。今目の前にいる木島さんは一緒にエルモアのネタを考えた同期で、さっき新人を叱っていた「やり手」と同じ人という気がしなかった。それだけに変に恥ずかしくなってしまう。
「それで、ご用件は?」
「あ、うん。実は雑誌社に勤めている友人からエルモアを取材したいって言われたんだ。4回連続の特集でその1回目は創始メンバーの声を聞きたいって言うんだ。だからあのときのメンバーを探そうとしたんだけど、ここに来るのが筋だと思ってね。あとは消費者も雑誌社に紹介しないといけないんだ」
「へぇ。その広報に偶然私がいたのね。でも恥ずかしいな。ドジな私がソツなく仕事する西君に『とろとろしないっ』なんて叱ったりして。ごめんね」
彼女は僕以上に謝る癖があった。それを今になって思い出した。せいぜい1年半前のことなのに。ドジだったのはあの新人だったときだけなのではないかと思う。それにしても僕がソツなく? 今チーフをやっている木島さんにそう思われていたのかと思うと嬉しかったが、ソツがないというより当り障りがないだけじゃないかと僕は自分で思っている。
「そんなに謝らなくていいよ。確かに僕は動きが遅いかもしれない」
「やだ、そんなことぉ…あ、その雑誌社とコンタクトとりたいんだけど何ていう雑誌?」
「んとね、ジャンヌとかいう…」
僕がうろ覚えの雑誌名を言ったそのとき、驚いたことに木島さんの顔が急に興奮を露わにした。
「ジャンヌ!? 凄いじゃない、西君。高名な女性誌よ。それにインタビューでしょ。西君かっこいいじゃない」
へぇ。ん?
「いや、僕だけじゃないって。木島さんもインタビューされるんだよ」
「あ、そうか。ははっ。うわー、凄いね私たち」
凄い、そう、あの時は僕たち新人グループがプレゼンのコンペで勝ったのだ。凄いことのはずだった。しかし、誰にも評価されることはなく、むしろ妬まれたこともあったし、記者会見には場慣れしている中堅メンバーが登場した。僕らが散り散りにされたのも僕らの功績を隠蔽するためではないかという声も聞いたことがある。もちろんそのことを言った先輩が僕を混乱させようとしていたのかもしれないけど。
「コンタクト取ってくれるんだね?」
「任せて!」
力強い言葉に新人のときのちょっと気後れした雰囲気は微塵も残っていなかった。
「ねぇ、木島さん。上司に聞かなくていいの?」
急に木島さんの表情が曇った。
「うん。実はね、『チーフなんだから自分でとっとと仕事を拾って来い』って言われちゃってるの」
「じゃ、これで…」
「うん。鼻を明かせる!」
笑顔。それがまた曇る。
「でもね、あのときの他のメンバーは私じゃ探せないのよ。消費者はどうやって探そうかな」
木島さんは忙しい身なのだから当然だと思うし、それくらいは自分でやらないといけないと初めから思っていたのでここは僕がしっかりと引き受けた。
「僕に任せてよ。消費者も何とかする!」
当てがないのに言い切ってしまった。木島さんの元気に触発されてしまったのが間違いだった。
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「ねぇねぇ品川ぁ。合コンしない?」
だらだらと事務処理の仕事をしていた私に神田が話しかけてきた。合コン、その響きを聞いていろんな思いが頭を駆け抜けた。この前のグランの男とエッチしてないし、マユ君に怒られたのが腹立つし、でもマユ君ちょっとかっこいいし、私のことを気に掛けてくれてるみたいな気がするし、それでもいろんな男と遊びたいし。
「品川ぁ。来ないの?」
今回は操を立ててみようかな、と思う。相手は恋人でも何でもないし、婚約者さえいる。私だってステディは嫌いだから操とかいう言葉は変なんだけど、でもなんだかそんな気分。操。面白いじゃない?
「他の2人は来んの?」
神田が声を小さくした。別に高田バカ課長が来たからとかそういうわけでもなかった。
「今回は特別、品川だけ」
「何で? 相手は?」
「相手はね、大学院生。Q大学って知ってるっしょ?」
え、Q大? やばっ、わかんね。ってことで困った私は適当なことを言ってみた。
「それって、テキトーな大学じゃないの?」
すると神田に、
「テキトーなのはオメーだろっ。あんたねぇ、私立の高級大学だよ。これと合コンできるんだよ!」
と説教されてしまった。
「それで、どうして私だけなの?」
神田は周りを見回して、急に私から視線をそらした。え? と思って神田を見ると神田は視線を下に向けたまま顎で横のほうを示したので、私はその方を見た。目黒が近くを通りかかって私と神田に気付いたのだ。
「あれ? 何の話してんの?」
寄ってくる目黒に神田が一言、
「仕事の話」
誰が信じるのよ、そんな大嘘。
「あ、そう」
去っていく目黒。おーい!
神田が気を取り直して、椅子をさっきよりも私のほうに近づけてまた口を開いた。
「Q大の男を引っ掛けることが出来たら将来安定はもちろん、すでにお坊ちゃま状態だからおいしいよぉ」
「引っ掛ける、って私はステディが嫌いだって言ってるじゃん」
全く、結婚とかそういうの嫌いなんだよね。打算で引っ掛けるのも苦手。いい男と楽しみたいだけなんだけど、他の連中って獲物を狙っているような雰囲気で合コンをやるんだよね。それで何が楽しいのかよく分からない。
目黒は何だかものをじっくり考えるような顔つきになって、それから諦めた表情になった。
「あんたみたいなちょっとルックスが映えるのが必要なのよ。だから来てよ」
普通、女ってものは何があっても、と言ってもいいくらい相手を誉めない。それなのにこうやって本気の表情で誉めるんだから余程私を武器にしたいらしい。でもねぇ。
「悪いけど断るよ」
神田は私の返事が意外だったらしい。白目むきやがったこいつ。
「品川だったら簡単に乗ってくると思ったのに」
「ちょっと待った。私は遊び人か?」
黙って頷く神田にムカついた私は神田を睨んで続けて言ってやった。
「大崎と目黒に言いふらしてもいいのか?」
ぎょっとした神田はぶるぶると顔を横に振って、同時に口が声を出さずに、
「高田、高田」
と言っていた。高田、高田…? 振り返った私はキモいものを見てしまった。高田のバカがすぐ後ろにいてこっちをストーカーみたいに見つめていやがった。
「高田ぁ、キモい〜。こっちみんなよ馬鹿」
とはさすがの私も言えないので、苦笑いとともに、
「あ、ども」
我ながら馬鹿じゃないかと思うようなことを言ってしまった。その時! 救いの携帯電話が鳴った。
「失敬!」
私は神田を生け贄にするようにその場を逃げ出して階段のところまで行った。言っておくけど、あたしゃ学生じゃないからね。そう見える生活状況かも知れないけど。
けーたいを見るとマユ君だった。これは、まさに操効果じゃん。
「マユく〜ん?」
その呼び方止めろ…。などと他人に文句を強く言えないのが僕の性分で、もちろん女性相手になんて、とりわけ美奈子には文句を言ったことなど無かった。そんなことだからあの土曜日に美奈子の誤解を解くことが出来なかったんだ。強い男なら、
「おい、勘違いするなよ。いいから話を聞け!」
と取り乱す彼女を落ち着かせてじっくり説明するのだろう。
自分を変えなくてはいけない、と僕は勇気を出して言ってみた。
「その呼び方は、やめてくれません?」
「あ、うん。で、何の用?」
「……」
そんな簡単に受け流されるとは思わなかった。が、電話の向こうは僕の気持ちなどこれっぽっちも考えていない。
「用件言ってよ。仕事中なんだよぉ」
あ、そうだった。
「あ、そうそう。僕もそうなんです」
「はっ?」
「エルモアって知ってますよね」
電話の向こう側の声はうんざりしたようだった。
「昨日言ったじゃない。…あ、神田ぁ、ちょっと待って」
誰かに話し掛けているみたいで、少し寂しかった。でもこっちには大きな話題があるので思わず声がにやけてしまう。僕も女性相手ににやけるようになったか、なんて感慨を覚える余裕も出てきたのだ。いいぞ、俺! ということで、ちょっと元気に問い掛けてみることにした。
「そのエルモアのモニターなんてやってみたくありません? ちょっとファッション雑誌の取材が入るんですよ。どうですか?」
返事がない。あれ、無視? 肩透かし?
「だからぁ、神田待ってろって。馬鹿。…ん? 何?」
こら。
「だから、エルモアの…」
「雑誌の取材!? えー女優になっちゃう前触れじゃない!? やるやる。ヌードはNGだけどね」
…ちゃんと聞いていたんじゃないか。馬鹿にされてることはいくら鈍い僕でも分かる。それに、誰が脱げと言った。そんな裸見たくも…見たんだった。先週の土曜日に。それも、これでもかというくらいに。そして…いや、今は美奈子のことは忘れよう。
「来週の火曜日に雑誌社と日取りを決めるんですよ。いいですか?」
「ふうん。どうしようかなぁ」
乗り気かと思えば勿体つけてきた。何を企んでいるのだろう。
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To be continued.