HSR
辻褄 Phase Six

 僕は火曜日の夜の出来事で歯車が狂って仕事も手につかない状態になってきてしまった。いや、歯車は土曜日の朝、あの女性の姿をベッドで見てから狂っていたはずだった。本人は浮気をしたのかどうかも分からない状態なのにそれを婚約者に見つかって、その婚約者は行方不明。一旦見つけたのに逃げられ…。そして水曜日、木曜日と美奈子を探す場所も思いつかずただひとつの望みとなるメールを送るだけだった。メールは届いているようだが、返事はない。
 美奈子の友達なんかを知っていたらそこから手がかりを得ることも出来るのに、僕は全く彼女の友達のことを知らなかった。それが悔やまれる。
 その一方で悔やむことが火曜日の夜。どうしてあの女性を責めたのだろう。あの女性が誰と何しようと勝手だ…とは思うけど、納得がいかない。別に自分の彼女でもないのに、納得がいかなかった。僕の前で平気で全裸で歩くくらいなのだから遊び人なのだろうとは思えるのだが、どこか真面目そうに見えて、その面を火曜日に裏切られたように思ってしまった。悪いことをしたと思うけど、電話をするのもおかしい。自分の思考と行動がちぐはぐなだけじゃなく、自分が何を考えているのかもわかっていない最悪の事態だということだけははっきりしてきた。はっきりしなくてもいいことなのに。そんな状態で残業など一切する気が起きない僕は美奈子のことも、あの女性のことも忘れようといつも金曜日に通っているバー「グレイスフル」に行くことにしていた。
 一応仕事を「心ここにあらず」ながらも終えると丁度5時のベルが鳴ってくれた。長い長い8時間だった。そして僕は獄中から出所するかのような感覚で会社を出た。するとその直後に携帯電話が鳴った。
「はい」
「あ、俺、二村だけど。時間ある?」
「あ、ああ」
「今度うちの雑誌でおたくの特集をやることになったんだよ」
 二村は雑誌社に勤めているが事務方なので編集とは無関係のはずだが…。
「うちの?」
「そう。正確に言うと、『グランと戦うブランド』っていう特集の第一弾がエルモアなんだよ」
 グランは誰もが知っているブランドで、服飾に関しては豪華さを売りにしている。これがけっこう売れていて全てのデパートがグランブランドを入れている。うちを除いて。うちはグランを取り入れることはしないでデパートならではの道を模索するとして、廉価から高価までを揃えた独自ブランド「エルモア」を立ち上げた。
「それを何で俺に言うんだ? それもお前が」
「西 真由こそエルモアの生みの親じゃないか」
 エルモアは性格にはL-moreと書いて、LはLadies(女性),Life(生活),Longevity(長命)を意味しているという実にありふれた「複数のコンセプトから共通する頭文字を持つ英単語を無理やり引用して、それを名前に使う」というネーミングなのだが、こういうものでも当然大々的に会議で決定される。その会議はプレゼン大会形式になっていて、実は僕の参加していたチームがその大会に勝ったのだった。その勝ったブランド名がもとになってエルモアは生まれた。そのことを確かに二村は知っていたが…。
「名前のもとにはなったけど、今の仕事はエルモアと全く関係ないぞ」
「いやいや、ブランド立ち上げ時の苦労やプレゼン大会のエピソードを聞かせてくれればそれでOK。何しろエルモアは4週間特集するからその導入部にマユの話が欲しいのさ」
「俺の手柄じゃないぜ。俺のいたチームの手柄だぞ。あと、何で二村が取材交渉してるの?」
「エルモアを今度特集する、って話を聞いたときに『友人に名付け親がいる』って何も考えないで言っちゃったんだよね。だからさ、ここは俺の顔を立てるためにも取材を受けてよ」
 何てことだ。
「他のメンバーも今は散り散りなんだよ。探す時間が欲しい。…いつまでに返事をすればいい?」
 あまり乗り気ではないけど、二村のためだから。
「お! 受けてくれる? いやいや、それは助かった。ありがとう!」
 二村の元気が羨ましく、こっちも少し元気になってきたもののちょっと苛立ったようにしてみせた。
「それはいいから、いつまで返事をする必要があるんだ?」
「ああ、来週の水曜日がテーマ確定の日なんだ。だから火曜日かな」
「そうか。了解。何とか探して声をかけてみるよ」
 メンバーは僕のほかに4人。声をかけられるのはせいぜい2人程度だろう。
 二村は調子に乗ってふざけたことを言い出した
「いやぁ、俺は編集でもないのに時間に追われることになって大変なんだわ。はは」
 自業自得じゃないか。それもうれしそうに言いやがって。今度おごらせるしかないと心に決めた瞬間だった。

 二村の電話のおかげで僕の意識は仕事のほうに向き始め、確実に活力が戻ってきているのが感じられた。この勢いを失いたくなかった僕は会社に戻って仕事の続きをやってしまった。これが本当に不思議なもので面白いように書類作成が出来るし、いろんな企画のアイデアも浮かんでくる。もちろん後で見てみたら大したことのないアイデアかも知れないが、それは良くあることで、むしろそれくらいのほうがいいアイデアの基になるものだったりする。
 そして気分良く再び会社を出た僕にまた電話がかかってきた。
 三沢タカオだったらこの気分が維持できないことは自信を持って言えたので誰からなのかを確認してみた。そういえば、もう「美奈子!?」と変な期待を抱かないようになっていた。まだ一週間も経っていないのに。それはともかく電話の相手は…名前が書かれていない。どうやら登録した電話番号なのに名前を入れ忘れてしまったらしい。
「はい。西です」
 仕事相手だったら困るので名乗る。
「あ、あの…」
 相手は女性だった。美奈子じゃない。弱々しい声。誰だろう?
「失礼ですが…どちら様でしょうか?」
「私。わかんない?」
 ん? 僕は浮気などしたこともないのでそんな女性の声に覚えはない。いや、あれは浮気じゃないと自分では思っているので…。とりあえず謝るしかなかった。
「すみません」
「そう…」
 あれ? 誰かの声だ。でも分からない。仕事相手だったら非常に困ることなので重ねて謝った。
「すみません」
「私ね、火曜日のことを謝ろうと思って」
 ん? 火曜日? この声?
「えっと…土曜日の…?」
 曜日だけの会話になっている。
「土曜日? あ、ああ。そうそう。土曜日の彼女よ」
 元気がないが、悪戯っぽい言い方が僕に確信を持たせた。あの女性だ。
「僕は…あなたの名前を知りません」
 半笑いで僕が言うと、あの女性も電話の向こうで笑った。
「そうだったね。マユ君」
「その呼び方はやめてください」
「可愛いと思うけど?」
 …。
「で、用件は…?」
「あ、そうそう。火曜日のこと謝ろうと思って」
「え?」
 謝るべきなのは僕だろう。

-----

 謝る気はそれほどなかった。ああ言わない限り誘いに乗らないだろうと思っただけ。きゃー、悪いオ・ン・ナ。
 あ、来た来た。
「おーいこっち!」
 この時間帯って新宿駅の周りは人が多いから飛び跳ねてアピールしないといけない。っていくらなんでも…気付けよ。そっちを探しても私はいないぞー。こっちだってば。おい! こら! こんな美人をどうして見逃す? え? 女優にってスカウトされたことだってあるんだぞ。怪しい方面じゃないぞ。本当の女優だぞ。
 こいつ、わざと私から遠ざかっているんじゃないか? 私は人波をヅカヅカと進んでいってスーツ姿のマユ君に後ろから飛びかかって首にぶら下がってみた。一度やってみたかったんだ〜。子供の頃お父さんにやって死ぬほど叩かれたのも今では思い出よね。

 僕は新宿駅を出て、しまった、と思った。人だらけであの女性がどこにいるかなどわからないのだ。特別背が高いというならいいかもしれないが、あの女性は多分160cm程度だろうから、いくら僕が180cm以上あるからといっても絶対に簡単に見つからない。ベンチにでも上っていてくれれば助かるけど。
 などと思っていたときに不意打ちが僕を襲った。首を何者かに絞められたのだ。
「うっ…」
 その刹那は首に掛かる負荷を、邪魔だから退かそうと思う程度だったのだが、すぐに苦しくなって慌てて首を前後に振っても余計に苦しくなるだけだった。
 前後がダメなら左右に首を振ればいいかというとそうでもない。むしろ大間違いで変に力が首に掛かってきて僕は死さえも頭によぎった。まだそんなに時間が経っていないのに意識が…。
 何が起きたのかもよく分からないまま僕はもがくようにして不意に上半身をよじらせて崩れ落ちた。その直後に突然首に掛かっていた力が抜けて僕は戸惑ったまま目の前にあるものを見た。目の前には、足。見上げていくと…スカート…くびれた腰…淡い桜色のブラウス…胸…綺麗な顔…? あ、あの女性だ。あれ? こんな美人だったかな?
「おう」
僕ではなくあの女性の声だ。それにしても何か感じが違う。
「どう? 清楚でしょ」
 確かに。いや、今僕に攻撃を仕掛けたのはこいつだ。
「清楚なもんですか。僕の首を締めてきたくせに」
「ぶら下がっただけじゃない。いやー面白い動きしたねぇ」
 そして女性は「だはは」と笑っている。僕にはこの女性が分からない。見かけと中身がチグハグというか…何の関連性もないように思えるのだ。言ってみれば可愛い着ぐるみの中身が中年男性だったりする感覚。

-----

 高層ビルの最上階。綺麗な夜景を見おろすバー。いい男−見かけだけかも知れないけど−と自分で言うのも何だけど、美女。ん? そりゃ当然私だって鏡を見るから他人より顔がちょっとくらい整っていることは分かってるって。とにかく、そういう場面よ。
「ねえ、ねえ、彼女には言い訳したの?」
「言い訳、って…まだ美奈子は見つかっていないんですよ」
 あらやだ。まだ見失ったままなの?
「でもさ、婚約者なんだよね。それってやばくない?」
 何か一瞬マユ君の眉間が動いたように見えたけど、普通の声で返事が返ってきた。
「本当にやばいと思いますよ。メールにも返事がありませんし。あ、あと、『マユ』はやめてください。『マサヨシ』ですから」
 そこは必ず突っ込むんだ。
 そこにパスタが2人分来た。ん? 何でこんなに湯気が? 同時にマユ君が異変に気付いた。
「窓ガラスが曇った…折角の景色が見えなくなっちゃいましたね」
「何かこのパスタ、ラーメンみたいだね」
「確かに」
 二人で笑った。

 この女性、品川彩という名前だそうだ。綺麗なようで笑い方は下品な方で、性格はまともなようで物凄く頭が…悪そうだったりもする。好きにはなれないタイプだというのが先ほど少し話してみただけで分かった。
 さっき「この前はごめんね」と言われたものの、悪いのはこちらなので倍の謝罪をした。それはいいが、どうもこの女性…品川は僕に謝らせたかったんじゃないかという邪推をしてしまいたくなる雰囲気だった。僕が謝ったときに満足そうだったんだよなぁ。
 景色が綺麗なバーでちょっと高級な雰囲気かと思えば曇ってラーメン屋状態になるし、綺麗に見えてそうじゃないような女性だし、第一、美奈子はここにいないどころか行方不明。連絡も取れていないのだからこんなことしている場合じゃないというのが頭をもたげてきて、ここにいるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。どうやって早めに切り上げようか。それにしてもどうして「婚約者」って言うんだ? 彼女と婚約者ってそんなに違うのだろうか? 婚約しても美奈子は美奈子のままだったから何も思わなかったけど、やっぱり違うものなのか。
「ねぇねぇ、マユ君はどんなところに勤めてるの?」
 突然僕の私情に踏み込んできた。その前に、出会いそのものが私情だと言えば確かにそうなので今更驚くようなことでもないのだが、僕は嫌な感じがした。どうも僕の境遇を楽しんでいるとしか見えないのだ。…楽しんでる。
 品川はくるくるとフォークを回して、なぜか僕の目を見ながらパスタを口に運ぶ。そして言葉を続けた。
「スーツだから、店員とか?」
 どうしてそうなるんだろうか? 普通サラリーマンは背広姿だと思うのだが。もちろんブルーカラーワーカーはそうではないかも知れないが、あれはサラリーマンとは…。
「僕は普通のサラリーマンです」
 僕は普通に答えたつもりなのだが、品川は随分と大げさに驚いた。
「え、サラリーマン!? うそー! それってすごくない? だって何歳よ?」
「23…」
「えー! 同じ年? それでサラリーマンやってんでしょ? すごいじゃん。私の周りなんてフリーターばっかだよ」
 …どんな連中なんだろう。僕だってエリートでもなんでもないのに、それを羨望の眼差しで見るっていうのは、余程ひどいことじゃないかと僕は思った。そういえば品川はどういう仕事をしているのだろう。
 また僕の目を見ながら食べている。そういう僕も品川の目を見て食べてるわけで、見詰め合って食事をしていることに気付いて慌てて僕は視線を皿に落とした。
「そういう品川さんは…」
「やーだ、彩でいいってば」
 水商売だろうか? まさか彼女でもない女性を呼び捨てにすることも出来ないし、たとえ名前を「さん」づけで呼んでも馴れ馴れしいと思うのでちょっと頑固になってみた。
「品川さんはどんな仕事を?」
「ん? 何だと思う?」
 これは水商売だ、という確信を得てしまったがそれをストレートに言ってしまうのは問題だと思うので、他のことを言おうと思うのだが、思いつかない。何かこの顔、雰囲気から…。
「どしたのよ? 婚約者無視して私をまじまじと見ちゃうなんて。ぷぷぷ」
 しまった。思わず真面目に見つめてしまっていた…。
「あ、いや、そういうつもりじゃなくて」
「だははは! 分かってるってばぁ。いや、もしかして実は…?」
 嫌気がさしてきた。ここまで軽い女性は嫌だと思う。俗にはこういう感じが人気あるのかも知れないけど、美奈子みたいな真面目そうなほうが僕はいい。美奈子はちょっときついところもあるけれど。
「ごめんごめん。マユ君困っちゃったね」
 馬鹿にされている気がしてしまう。僕は自分で温厚なほうだと思っているのだが、むかむかしてきてしまった。でも気を取り直さなければならない。
「品川さんこそ、店員さん?」
 品川は急に笑顔になって更に声が大きくなった。恥ずかしい。
「ええー! そんなに私可愛い〜?」
 可愛くない店員がいたっていいじゃないか。何か僕の性格が悪くなっているような気がする。品川はペースを狂わせる天才なのだろうか。天災と言いなおしてもいい。
「え、あ、まぁ」
 僕は気が弱いのだろうか。こういうときにはどう言うのが正しいのだろう。
「婚約者がいるのに口説いてどうすんの? …あ、ごめん。本気にしないで。…で私はね、OL」
「え、OLなの?」
 これは意外だった。品川もフリーターなのかと思っていたから。あれ? 何でそれでサラリーマンに感動するのだろう。
「OLなら、サラリーマンじゃないの?」
「うそ!」
 周りの視線が程よく着飾った品川と背広姿の僕に向けられる。僕のことは見ないで欲しいのだが。
「嘘も何も…」
 僕の声が小さくなったところで視線は、いや、顰蹙の眼差しは弱まるはずがない。そして僕の小声になる様子に対して品川は当然のように気付かず、無視しているかのような様子でパスタを食べる。
「じゃ、私すごいじゃん!」
 まあね…。帰りたい…。

 いやぁ、知りませんでした。OLもサラリーマンだったんだねぇ。え? 馬鹿? 何を今更。
 どうもマユ君が元気ない。やっぱり彼女が行方不明だからかな。でもねぇ、慰めるのは難しいな。体で、ってのは問題ありだろうなぁ。あの女、すぐキレそうだから。
「ねぇねぇ、どこに勤めてるの?」
 話を真面目にすすめようとしてあげたらマユ君は意外な返事を返してきた。
「品川さんは?」
「え〜? ひ・み・つ」

 秘密って、やっぱり水商売なのかと思ってしまう。このノリはやっぱり好きになれない。
「僕は…」
 そうだ、ブランドがあったなぁ。今日はエルモアの話で気分がよかったんだ。ちょっと位嘘を言っても構わないだろう。
「エルモアって知ってます?」
「あ、うそ、エルモアやってるの!」
 また声が大きくなる。
「すごいじゃーんマユ君。デザイナー?」
 そうきますか。二人同時にパスタを食べ終える。
「デザイナーじゃありませんけど、立ち上げをやりましたし、企画もしますよ」
「すごーい。私、あれ好きなんだよね。今日のスカートもそうだし」
 あ、気付かなかった…。
-----

To be continued.


Novel H-SHIN's rooms
HSR