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辻褄 Phase Two

 男の服は水を張った風呂に入っていたらしい。何でそんなところにあったのかわけが分からないけど。今その服は全部洗濯機で洗ってる。乾燥機に入れるのは洗ってからでも土曜日だから全く問題がない。結局男が着られる服がなかったので洗濯の間男にはシャワーを我慢してもらってベッドに入ってもらってる。

 この部屋の主であるこの女性は「軽い」のかそうでないのかよく分からない。恥ずかしそうに布団で身体を隠すかと思えば僕の前を平気で裸で歩き回る。そうかと思えば洗濯までしてくれた上に、
「はいジュース」
 と枕元の照明の横にオレンジジュースの入ったコップを置いてくれる。彼女は一方自分の分のコップをベッド足先にある小さな黄色い丸テーブルに置いて腰を下ろした。カーテンの開かれた窓から心地よい日差しが入るが、僕の心は穏やかじゃなかった。でも誰に怒りをぶつけても意味がない。
「彼女がいたんだ」
 女性がジュースを注ぐために中断した話を続けた。さっき僕を蹴って出ていった女性のことだ。そう、あれは僕の彼女だった。
「ご迷惑をおかけしました」
と謝ったところ女性はむしろ喜んだように、
「ねぇ、あの女名前はなんていうの?」
と興味津々の体で聞いてきた。質問責めも考えられるが迷惑を掛けているのだからそれは甘んじて受け入れるしかないだろう。
「…美奈子」
「ふうん。ね、何でその美奈子…さんはここにキミがいることを知ってたんだろ?」
 誰もが思うことだろう。でも、
「分からない。何でこんな時間に来たのかも分からない」
 女性は首をかしげて僕のところに来た。
「彼女のことなのに分かんないんだ。いや、私さぁ、そういうのよく分からないんだけどね」
 女性の言っていることがちょっと不思議な感じがしたので僕は考えるような表情になったらしい。女性は説明を付け加えた。
「私はね、縛られるの嫌いだからさぁけっこうフリーな付き合いしかしないんだけど皆ってけっこうベッタリじゃん」
「うーん」
 美奈子。荒川美奈子は僕と同じ年の23歳で先日婚約した女性だ。彼女とは…
「ねぇ、いつから付き合ってんの?」
 来た。質問攻めに合いそうだ。その時洗濯機が洗濯を完了した合図のブザーを鳴らした。
「む、乾燥機に入れますかぁ」
 女性が風呂場に立って行ったので何とか難を逃れた。僕は美奈子と中学校のときから付き合っていて、それぞれ違う高校に進学するときに自然消滅した。しかし高校3年のイベントで偶然に久々の再会を果たし大学2年まで付き合っていた。違う大学に進んだことで彼女に別に好きな男性が出来たのが2度目の別れの原因で、今年就職した僕は無理矢理連れて行かれた合コンでまた彼女と再会した。そして今に至る。
「へぇ。面白いね〜」
 女性の誘導尋問で、気がついたときに僕はすべてを話してしまっていた。

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 今男はシャワーを浴びてる。乾燥がもう少しで終わるから風呂に入ってもらった。それにしてもあの美奈子って女怖〜い。キキ迫るってやつよね。
 何気なくベッドの下を見てみると羽根の形をしたブローチが落ちていた。誰のだろ? 何人かの男がここに来てるから誰のだか分からなかったりするんだよね。とりあえず見てみる。
「お、グッチじゃん。いっただき!」
「あのぉ、そろそろ失礼しますので…」
 男が服を着て出てきていた。けっこうかっこいいじゃん。
「もう一晩、どう?」
「え、そんなわけには…」
「だはは冗談冗談!」
 弱々しくって変な男。

 大人しいのか豪快なのか良く分からない女だ。
「ねぇ、何か忘れ物でもあったら困るからケータイ番号教えてよ」
 女性が携帯電話を出した。僕が渋っていると女性は勘違いしたようで、
「あれ? ケータイ持ってないの?」
と言う。
「いや、あります」
 僕が自分の携帯電話を差し出すとそれを使って女性が自分の携帯電話に掛けた。これで女性の携帯電話に僕の番号が登録された。さらに僕の携帯電話にも履歴を使って女性の電話番号が登録された。妙なつながりだと思う。
 女性が電話を返してくれる。
「んじゃ、この後大変だと思うけど頑張って」
「はぁ…」
 確かにこの後が僕にとって大変な時間だろう。どうやって言い訳をすればいいのか。そんなことを今になって思ってる時点で僕は…。
 女性はなぜか玄関まで送ってくれた。玄関先でも、
「頑張れ〜!」
 と。完全に人事だ…。
 アパートの外廊下を歩きながら帰り道を考えていた。あれ?
「ここってどこですか?」
 僕が今更になってそんなことを訊いたので女性は笑った。
「東京!」
 東京のどこかを知りたかった。東京じゃなかったら泣いているところだ。

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 僕はJR駒込駅にいる。土曜日の朝6時半に山手線に乗ることになるなんて思わなかった。あの女性の示した駅までの道順は見事なまでに正確で、
「男の足なら7分くらいで着くと思うよ」
 というのまで完璧なものだった。
 電車が来たので何気なく乗って座席に座ったが、大事なことを忘れていたことに気付いて自分が情けなくなった。女性の名前を聞き忘れたのだ。
 僕の家は東十条にあるので駒込の隣の田端で京浜東北線に乗り換えないといけなかったが、つい考えごとをして乗り過ごしてしまった。田端でなくても山手線と京浜東北線が並走している駅が続いているのでそれほど痛くはないが自分が情けなくなることには変わりなく、憂鬱になる。
 日暮里で京浜東北線に乗り換えてからもう一度考えてみる。昨日の夜僕は間違いなく新宿のラウンジバー「グレイスフル」のカウンターでいつものように1人でカクテルを飲んでいた。ラウンジバーというと高級な感じがするけど「グレイスフル」は雰囲気が大人のものにもかかわらず安くお酒をたしなめるので好んで週1回のペースで通っている。そういえば美奈子と「グレイスフル」に行ったことはない。別にそういうつもりではなかったけどいつも1人で行っていた。確かに知人のいない空間が心地よかったとは言える。それから僕は電車に…乗った記憶がない。でも家には着いたはずだ。見たかったテレビ番組を見たのだから。…でもその先は? その記憶がはっきりしない。テレビ番組を見たという実に漠然とした記憶だけが僕を支えていた。ただそれだけでは僕が酔っていなかったとは言えないし、何よりもあの女性の家で寝ていたことは事実。
 そうそう、僕の財布と携帯電話は冷蔵庫に入っていた。服が風呂場に浸かっていたのに、所持品は冷蔵庫にあったというのも変な話で…やっぱり酔っ払ってあの女性を抱いたのだろうか。あの女性はそう言っていたがにわかに信じがたい。そんなことを考えている最中、ふとあの裸身が脳裏をよぎる。ああ、美奈子に何て言えば…。
 6:58、僕を乗せた京浜東北線は東十条駅に到着した。ああ、美奈子に何て言えば…。

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 さて、謎の男が帰っていった。まだ眠いから寝たいんだけど、私は二度寝が出来ない性質なので諦めた。ふとベッドを見てさっきの変な出来事を思い出す。ここで久しぶりに男と寝てたんだよね…。ベッドに座ってみるとまだ暖かかった。マサヨシか。
「マサヨシってどういう字なの?」
という私の質問に男は、
「写真の『真』に理由の『由』」
と嫌そうに言った。
「ん? それってマユって読まない?」
「それは…言っちゃいけない」
 あれは笑えた。もうちょっと引き止めても良かったかな。
「なんてな」
立ち上がって窓を開けてベッドから布団を取り出してベランダに干す!
「うーん!」
 この時期にしてはちょっと寒いけど気持ちがいいから伸びをした。
「あ」
 干してから思ったけど今日は雨、降らないよね? テレビを点けて確認してみると、「気持ちのいい快晴」だってことなので今日は出かけることにした。
「それまでの間!」
 掃除、掃除! 友達の家ってみんな散らかってるんだけど、私、家事好きなんだよね。ということでまずは床を雑巾で拭くことにした。水道の蛇口をひねって雑巾をバケツに浸して、絞ると、
「冷たい!」
 誰も聞いちゃいないのに独り言を言うのって、問題アリかも知れない。

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 僕は肌寒い街中を重い足取りで歩き、いつの間にか家に着いていた。この道、昨日は歩いたのだろうか? だんだん昨日の自分というものが分からなくなってきて不安に襲われ始めた。人の記憶というものはたとえ途切れ途切れでも、それが繋がった一連のものであるという確信があるから気にもならない。しかし一晩の記憶が一気に欠如して、その後信じがたい出来事が起きていると自分さえも信じられなくなってくるということが今分かった。もし気がついたときに職場の人々が怪我をしていて周りに倒れていたならば酔って暴れたんだな、というそれなりに合点のいく理由付けが出来るが、家でテレビを見たという記憶がありながら翌朝行ったこともない駒込の謎の女性の家で寝ていて、それも2人とも裸で服は水に浸かって所持品は冷蔵庫、そして…美奈子に見つかった、なんてことを羅列されたらそうなった理由が思いつかない。
 僕の家もあの女性と同じようにアパートで僕はその1階端に住んでいる。そのドアの前で少しボーっとしてしまったが、ボーっとしていても仕方がない。ドアを開け…、
「あ」
 当然だけど鍵が掛かっていた。
 鍵を開けて入ると、部屋はいつもの姿で僕を迎えてくれたので少し落ち着いた。とりあえず美奈子に連絡を取らないといけないので僕は携帯電話を取り出した。美奈子の電話番号に掛けるがどうしても繋がらない。
「お客様の電話からはお繋ぎ出来ません」
 これは完全に着信拒否だ。美奈子の家に行く必要があるだろう。ただの恋人ならいいが、婚約してるのだから話は単純じゃない。これは大事になるだろう。逆に美奈子が他の男の家に裸でいたら僕は悩んで喫茶店とかで無駄に時間を過ごすと思う。つまり短時間のうちには大事には発展していないはずだ。大事になる前に何とかしなければならない。何とか。どうしようにもアイデアが浮かばない。
 ということで友人の二村(ふたむら)に電話をしてみた。
「あん?」
 機嫌が悪そうだ。
「あ、俺。真由」
「おい、どうして休みの日の朝に電話よこすんだ? 今さ……8時じゃねぇか、馬鹿」
「馬鹿って」
「俺に何の恨みがある。今日俺の横に女が寝ていたら絶対許さないところだったぞ」
 この二村の言葉に思わず息を呑んでしまった。
「おい、マユ、何の用だ?」
 恥ずかしながら高校からの悪友であるこの二村弘孝は僕をマユと呼ぶことが多々ある。実に嫌なのだがいくら文句を言っても聞き入れられない。
「いや、実は、美奈子のことで」
「何か喧嘩でもしたのか?」
「ちょっと…」
「何だよ?」
 この後僕は二村に今日の出来事を簡単に話し、昼に喫茶店で会う約束をした。今日の出来事と言ってもまだ朝なのだが。

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 掃除機のモーターが止んで掃除完了。私は洗濯も終えて今度は乾燥機に洗濯物を入れ替えることにした。またあの男のことを思い出す。私、昨日酔っ払ったかな? 酒は飲んだけど、カクテル一杯だったはずだから私が酔うはずない。あいつこの後大変そうだなぁ。っていうよりあの女は失敬だと思う。
「ま、どーでもいいか」
 もう10時を過ぎていたので出かける準備に取り掛かることに。私はショートカットなので髪はいじる必要なし。メイクもほどほどに済ませて、縁無しの、色も度もない眼鏡をちょこっと掛ければほぼ完成よ。眼鏡って縁がないとけっこう清潔感が出てこれだけでも楽に外に出られるし、渋谷あたりならナンパもされる。別に自慢ではないけれど。
「おっと」
さっき拾った羽根のブローチをつけて、ピアスをして準備OK。
 服でも買いに行こうかと思ったけど、そうだ、理沙も誘おう。

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To be continued.


Novel H-SHIN's rooms
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