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LibiDo Story 1_2
 幼稚園の園長室。6畳ほどの広さで調度品はそれほど多くなく落ち着いた雰囲気の部屋。優しそうな痩せた中年女性の園長が穏やかな笑みとともに頷いた。
「そうですか。それはちょうどいい所だったんですよ。花村さんがいらっしゃって本当に助かります」
 リサ…ここでは花村美香と名乗っている…はリサとは違って優しい瞳で笑みを返す。しかし緊張の表情で思いを伝えた。
「最近幼稚園が減ってしまって、本当にしたかった仕事を諦めていたんです」
 リサが本当にそうだということではない。あくまで仕事のための嘘だ。
 園長は美香を見つめて間もなく頷き、
「そうですか。それではぜひ明日の月曜日からお願いできますか?」
と言った。
 美香は園長に見つめられたときにこの上なく表情が強張ったが、採用されたと分かり満面の笑みに変わった。
「あ、はい! ぜひともよろしくお願いします」
 ここは竹ノ塚駅から徒歩10分程のところにあり、閑静な町並みに何気なく溶け込んで存在している双葉幼稚園。庭部分は綺麗に掃除されていて遊具も手入れが行き届いている。が、実際リサは幼稚園など全くと言っていいほど知らないのでこれが当たり前なのかそうでないのか分からない。そこで美香は半分正直に、
「遊具とか、花壇とかをちゃんと見たことがないので少し見せていただいて構いませんか?」
と早速調査を始めることにした。
 今回の任務はこの幼稚園に務めている男性、真田誠一の許嫁を許嫁ではなくして、依頼人金沢弥生が真田にアタックできるようにするというもの。リサにとっては殺し以外は面白くない仕事ではっきり言ってしまえば全然乗り気になれないが、とにかくまずは身辺調査をすべくターゲットと同じところに勤めるという行動に出たのだ。昨日連絡を入れたところ、今日が日曜日で園児もいないので面接に適しているということで早速の面接となった。そしてこの幼稚園に「先生」という形で採用された今、見事潜入に成功したといえる。履歴書や出鱈目の身分証明書は全てヤスが用意していて、その出所はリサには分からずただ利用しているだけだが、『組織』が関与していることは想像が付く。ヤスからこっそり聞いたことがある『組織』だが、表向きは探偵事務所で仕事の内容が殺しに結びつきそうな場合にヤスに話が行くらしい。ヤスは何かを恐れてそれ以上のことを言わないので詳細は全く分からないが、それは構わない。それよりもリサには一つ気がかりなことがある。ヤスにも言っていないそれは自分がいつからこの仕事を始めたのかはっきりしないということ。何がきっかけで殺しを始めたのか全く分からないのだ。それでもリサはそれほど深く考えていないようだった。親の存在も知らないことから、孤児で物心がついたときには既にこの世界にいたのだと思っているのだろう。
 任務には当然それに適したファッションというものがあり、今回は薄い水色のワンピースで髪はポニーテール。化粧はなし。実に真面目そうな雰囲気が漂うが堅さは見られない、バランスの良い雰囲気でまとめている。
 園長がゆっくり頷く。
「どうぞごゆっくり見ていってください」
「ありがとうございます。あとは勝手に帰りますので…ここで失礼します」
 ヤスはリサの、この普段とは違う可愛らしい笑顔を知らない。知らなくていいかも知れない。悪魔の微笑みを知って今以上に人間不信に陥ってしまうのは望ましくないだろうから。
 美香と園長が園長室を出て廊下を歩き出すと、間もなく後姿の男性が目に付き、リサはその男性が何者であるかすぐに分かった。園長は驚いた様子で呼ぶ。
「真田さん」
 呼ばれた「お見合い写真」の男、真田誠一が振り返って園長に答える。
「園長、こんにちは。あ、どうも」
 真田は美香に気付いて会釈をし、美香もそれに応じる。
「はじめまして」
 園長が美香を真田に紹介する。
「こちら、明日から来ていただく花村美香さんよ。花村さん、こちらは真田先生。年長さんのふじ組を受け持ってるの。…そうだ、ちょうどよかったわ。まずは真田さんのもとで慣れてもらおうと思っていたのよ」
 リサは珍しくターゲットの方から勝手に向かって来てくれたので意外に感じたが好都合なものは拒む必要など全くない。快く受け入れるまでだ。
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
 爽やか。これが真田の特徴だった。美香に右手を差し出したのだ。つまり握手ということで、美香もそれに応えた。いやらしさや気取りのない実に自然な握手だった。リサは仕事柄、政治家や実業家などの連中を相手にすることが多いのだが、彼らは握手に慣れているはずにもかかわらずどうも似合っていない不自然な握手しか出来ないでいた。自然な握手を幼稚園で目にするとは思わなかった。
 園長が真田を見上げる。 「真田さん、今日はどうしたの?」
 日曜日は基本的に休日なので園長が不思議そうに聞くと真田はやはり爽やかに答えた。
「ふじ組のチューリップがちょっと元気なかったので心配になって来てみたんです」
 内容まで爽やかなのでリサとしてなら胸やけがするが、花村美香としてはそのような表情はしない。笑顔を保つ。
 園長は真田の言葉に感心した様子。
「そうですか。真田さんはいつも子供たちのことを考えてますね」
「ええ、かわいいですからね。自分に子供が出来たらそんな悠長なことは言ってられないと思いますけどね」
 子供か…。そう、そうならないように許嫁から引き剥がさないと行けないのだ。
 真田のおどけた言い方に園長は笑った。
「まあ。…そうだ、花村さん、真田さんに少し庭を案内していただくのがいいと思いますよ」
 美香は少し驚いた表情で、
「え、よろしいんですか?」
 園長と真田を見回すと真田がそれに応えた。
「どうぞ、庭はこちらですから靴を入り口からお持ちになってください」
 今回の任務はこの男を誘惑することだ。リサは気を引き締めた。

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「このチューリップが子供たちの植えたものなんですよ。でもふじ組のところは運悪く日陰になっている時間が長いので弱ってるんですよ」
 真田は美香と共に庭に来ており、その端にある花壇でチューリップを指差した。赤、桃色、白、黄色様々な色のものが複数のプランターに育っており、それぞれのクラスごとに区分けされている。庭では蝶がはらはらと舞い落ちる花びらのように飛んでいてここに園児がいたらどれだけ賑やかなことだろう。
 庭はそれほど広くはなく、園児を十分見渡して安全を確保できる程度だった。何か事故でも起こして本来の目的の妨げになっては困るのでこの狭さは都合がいい。花壇のほうから園舎を見ると実に可愛らしい建物であることに気付く。
 リサは真田の指差した先のチューリップを見て、
「あら、本当…」
 そう言ってみたものの、リサにはチューリップが異常なまでに強靭な花であるという記憶があり、目の前の弱々しいチューリップに違和感を覚えた。これではいつ枯れてもおかしくない…。
「真田さん、日向の方には置かないんですか?」
 美香は当然の疑問を口にしてみる。しかし、こういうことは慎重さを求められるもので、誰でも分かるようなことなのにしていないというのは何か事情があるのが殆どであるため、機嫌を損ねる可能性が高い。初対面の人とうまくやっていくにはそれなりの作戦というものが必要だろう。この場合は他に何も言いようがないから仕方がない。
「え? あ、そうですねぇ。そうだそうだ気付きませんでした。そうか、そうでしたね。あは、あははは…」
 真田の間抜けさに面食らった美香は戸惑いながらも笑みを返す他なかった。
「あはは…」
…慎重にならないですむこともある、ようだ。

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 美香の家はリサのそれではない。リサは仕事ごとに部屋を変えるのだ。いや、正確に言うと変えるのではなく、仕事が片付くまでの間は別の部屋を借りる。演じる人物をより具体的に作り上げるためでもあるし、仕事のための行動中に本当の自分の家がばれてしまうという危険を回避する意味もある。借りる際の身分詐称は何とでもなるもので、貸すほうも相手がまともそうな人間であればいくらでも貸したがる。それも美人となると、大家が男なら話は簡単。
 その部屋に戻ってきた美香はリサには戻らないで殆ど美香のまま通す。この仕事の間は花村美香という人物が確実に存在し、一方リサという自分でも何者かよくわからない女は姿を消してしまうことになる。偽った存在であるほうがアイデンティティを確実にすることが出来、曖昧な点など一切なくなるのでリサは心置きなく偽る。偽るほうが落ち着いていられる。そして最後はターゲット共に、作られた自分も片付けることになる。その瞬間が、リサの心の底を打つ。楽しむのとはまた違うし、寂しくなるのとも違う。自分が自分でないながらも自分として存在していたものから本当の自分に戻る、そのことが大きなうねりとして興奮に似た状態を作り、ターゲットを始末しようと更に追い込む。するとその興奮のよ うな状態が拡大され…発散していく。
 食事を終えた美香はテレビを見ながら皿を洗い始めた。リサは食器乾燥機で済ませるが美香は違うということのようだ。
「あ」
 大人しそうな声で呟くと一旦皿を置いて風呂を沸かしに行った。ここには花村美香が住んでいる。それは「事実」。

 翌朝、美香は…。
「何で初日から遅刻〜? ちょっとほんとに困る!」
 身支度もそこそこにワンルームマンションの玄関を飛び出ていた。完全にリサを意識から消している。「仕事」の準備段階では必ずこうする。故意に意識を操作しているため二重人格とは違うが、同じと考えてもいいだろう。女優と同じかもしれない。
「走れば間に合う…はず!」
 通勤は電車なので駅に向かって猛然と走り出した。ヒールが邪魔だが仕方が無い。駅に着くと美香は電車に飛び乗った。足が車内に入った直後に扉が閉まり、
「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」
のアナウンス。周りの人の視線が自分に向いて美香は思わずうつむいた。一応ラッシュではあるがそれほど込んでいるという感じではない。山手線を考えれば全然大したことはない。
 隣の駅で人が乗ってくると美香は押されて中央のほうにまで来た。やはりそれなりに混んできた様子で前後に人が隙間なく触れる状態になる。
「ん?」
 背後にある感触が動き出し、美香の尻をなで始めたように感じる。恐らくバッグか何かが当たって電車の揺れに合わせて動いているのだろうと思って様子を見ていたが、程なくスカートの中にその感触が入ってこようとした。
 …痴漢?
 苦労して首だけ振り向くと、ずいぶんと体格のいい男が美香の目を一瞬見て目をそらし、知らんふりをした。その手がよく見えないが、感触は明らかにスカートに入っていた。
「……」
 美香は確信して感触の「もと」を掴んで一気に力を入れて握り、自分のほうに引き寄せた。
「おっ」
 背後の男が倒れかかってくる。こいつが痴漢だというのは間違いない。ここで美香がリサに戻ってしまった。獲物を捕らえた状態になると本性が出てしまうらしい。リサは男を睨んで、
「痴漢だね」
と小声で言った。
 男はしらばっくれて首を横に振る。そしてその目はリサを睨み返していた。
「あんた、痴漢を認めないなら大声で『痴漢』って言うぞ。あんたの手はさっきどこにあった?」
 男は動じるどころか、平気な顔で無理やり自分のもう一方の手を使って袖を少し捲った。リサが黙ってそれを見るとその太い腕には模様があった。…模様じゃない。刺青だ。男を見ると「どうだ」と言わんばかりの自慢気で不敵な笑みを浮かべていたが、しかし殺し屋がそれに反応することはない。何しろそういう連中相手に暗殺をしたこともあるのだから。
「次の駅で降りるぞ」
 リサが言っても男は「こいつは頭がおかしいんじゃないか」というぐらいの気でしかいない。そんな中電車が止まる。揺れで男の手を放しそうになるが何とか放さないで済んだ。
 降りる人が少ないので男を引っ張っていかないといけない。手首というものは力をいれて掴むと痛くてどうしようもない部分があり、リサはそこを掴んでおいてもがく男を引っ張り出した。
 ホームに出たところでリサが男の手を放すと顔をゆがませた男は気を取り直して怒鳴った。
「このアマ、何しやがる!」
 ホームの人々が男の声に驚き、そこだけ人がいなくなってスポットライトを浴びているような雰囲気が漂った。
「あんたこそ何してるんだ。馬鹿だろ」
 小声のリサ。
「あんだと!?」
「痛い目にあいたい?」
 軽くリサは睨みつけ、ハイヒールを脱ぐと自分よりもずいぶんと背の高い男に向かって走りこんで横を向いて飛び上がりながら右腕の肘を上に向けた。その肘はリサの動きにきょとんとしている男の顎に食い込み、その体が吹っ飛んだ。
 朝のホームで人が飛ぶなどという滅多にない出来事にそこにいる人々は驚きの表情を見せ、騒然となる。何が起こったのか誰にも分からない。まさか女性が、それも小柄の女性がそれなりの体格の男を吹っ飛ばしたとは誰も思わないためホームの群集はリサには見向きもしないで倒れて失神している男を取り囲んだ。
「あ!」
 我に返って美香はハイヒールを履いて階段に向かった。都合よくこの駅が幼稚園の最寄駅である竹ノ塚であった。人波を掻き分けて進む美香は駅の秩序を乱して全ての人に顰蹙(ひんしゅく)の目を向けられていたが、本人はそれどころではない。殺し屋というあらゆる危険を伴うことをやっているリサは腕力はそれほどないものの、先ほどのことからも分かるように身体能力が鍛えられているため、普通の若い女性とは違うジャンプ力、着地の姿勢、走り方で周囲を同時に驚かせてもいた。
 竹ノ塚駅を出て、身軽に走りながら時計を見ると職員ミーティングまであと5分。徒歩10分のところを5分で行くことになる。
 え、5分!? 美香は驚きと共に呟いた。
「間に合う気がしないんだけど…」
 そうは言いながらも3分後、へとへとになりながら美香は双葉幼稚園のある通りに来ていた。もう安心した美香は小走りで双葉幼稚園そばに向かい、余裕が出たのか向こうから来る真田に気づいた。真田も美香に気づいたようで手を軽く上げながら、
「花村さん、おはようございます。大急ぎですね!」
と笑った。その笑顔は爽やか以外の何物でもない。
「おはようございます!」
 美香も走りながらも元気よく挨拶しようと、両手を上げた。
「おはようございま、あー!」
 道の溝に足がはまって…。
「あ〜」
 前のめりになって…。
「あ゛〜っ!」
 顔面を地面に…。
 真田も驚いて声をかける。
「花村さ…あ。」
 ドサッ、という騒がしい音と共にゴッ、と鈍い音がした。真田が驚きと共に顔をしかめてやっと助けに向かった。

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