HSR
LibiDo Story 1_1
 リビドー:人間行動の基とされる根本的な欲望。
 その根本は人によって異なる。一般に性的衝動を指して言われるが、それは全てではない。人間故に何か埋もれたものが心の底辺で対流して感情のもととなり、それが行動を引き起こす。そして行動は他人の、自分のリビドーを叩く…。

 夜の新宿、昼とは違いビル群の各々が自らこそ一番目立とうとするかのように煌煌と輝き、その下を歩く人々の数は昼の何倍にも達して喧騒さえある。ネオンの周りでは表面上は平和な様子ながら、店の人間の金銭欲と、呼び止められる人の男女に関わらず渦巻く愛欲がにじみ出てくる様が描かれる。そのどろどろとした裏側は見慣れたもので、嫌悪感を覚えるよりも滑稽に見えて実に面白い。喧騒から逃れてビルの屋上から見るこの街並みは数々の物語を傍から見ているようで心が妙に落ち着く。
 パトカーのサイレンが鳴り、その音が近づいてきた。歌舞伎町近くのビルの屋上で女は屈んで苦しそうな体勢になって周りを観察していたが、サイレンが近くで鳴り止んだのを確認すると先ほどまで覗き込んでいたスコープから目を外して立ち上がった。
「邪魔…」
 女は呟いた。せいぜい15階建て程度の高さのビルでも屋上は季節に依らず風が強く、女の美しく長い黒髪を躍らせる。一見女の姿が悪魔のように夜空に映えるが、明かりも何も点いていない屋上でのその様は誰の目にも止まるものではない。その孤立感に女は密かに喜びを感じていた。子供がかくれんぼをしてなかなか見つからないでいるときの感覚だろう。そして悪魔の細い手には、小柄な体に多少不釣り合いなライフルがしっかりと握られている。さっきまでこのライフルの暗視スコープを使って街を見下ろしていた。すなわち誰かを暗殺すべくここに来ていたのだがパトカーが近くにあるところでは逃走に支障がある。スコープから目を外したことで緊張が解けて一息ついた女は腕時計の明かりを点けて時間を確認した。暗殺のターゲットはまさに今観察していたネオンのもとで愛欲の店、クラブに入ってまだ出てこない。調べたところではターゲットは土曜日の夜9時に店に入り深夜1時までいるはずだが何があるか分からないため9時からずっと見張っていた。今は12時。新宿で暗殺を図る理由はいくつかある。まず、ビルがたくさんあるために射撃場所を特定されにくい。暗殺直後に周囲が大騒ぎになっても人波に紛れるのが簡単。そしてターゲットにいつもついているSPがいなくなるのが土曜日のこの時間、ターゲットがクラブから出てくる時だけなのだ。
「どこ?」
 女はパトカーの位置を確認しようとターゲットの入ったクラブから目を離して屋上を歩いた。屋上には配管や空調設備関連の機器が多く設置されていて下手に歩き回ろうものなら躓いて転んで大怪我をしかねないので慎重に歩く。思い出したように白色ダイオードのペンライトをパンツのポケットから取り出して自分の周りを照らし出した。普通の白熱球では明かりが黄色がかって色が正しく判断できなくなる上に不意に電球が切れたりするため白色ダイオードにこだわっている。すらりと伸びた足で配管を跨ぎ少し覚束ない足取りながらもビルの正反対の辺に向かい、落下防止フェンスを少しよじ登って下を見下ろした。パトカーは目立つ赤い光を放っていてスコープを使うまでもなく位置を容易に視認できる。
「ここか…」
 フェンスから降りると再びペンライトを使ってクラブの見える方に急いで戻った。見張りを外す時間は短いほうが良いに決まっている。初期位置に戻ると初めと同じように屈んで苦しそうな体勢でスコープを覗き、銃口をクラブの入り口に向けた。女はこのまま何時間でも待っていることが出来る自信がある。そして現に何度もそのような事態を普通に過ごしてきた。
「…!」
 銃口を入り口に向けた直後、既にターゲットである国会議員がその図体をクラブのホステス2人に預けて店の外に出ていることに気付いたのだ。パトカーはまだあそこに止まっているだろう。店の方ではタクシーをすでに呼んでいるはずだからここで撃たないとまずいが…。迷う場面で女はスコープに映った汚らしいターゲットの顔を凝視した。そして呟く。
「こ・ん・や・は・さ・ん・に・ん・で・す・ご・す・ぞ」
 女は読唇術が出来るらしい。
「飲みすぎでフラフラになってるくせに何を言ってるんだか」
 呆れながらも読唇は続く。
「た・く・し・き・た……? タクシーか」
 迷っている場合ではなかった。照準をターゲットの頭に急いで合わせる。自分の鼓動が高まるのを感じる。緊張ではない別の感情が女には快感だった。
 バフッ!
 拳銃よりは鈍い破裂音が女の左腕と右肩に衝撃をもたらす。普通の若い女性と何ら変わらない体格ではライフルの反発衝撃に対して全く平気というわけにはいかない。慌ててスコープをターゲットに向けると額から血しぶきを上げて仰け反るターゲットの姿と、ターゲットの体重に耐えられず一緒に崩れ落ちる2人のホステスが確認できた。
 まもなく悲鳴が上がるのは明白なので女はライフルをギターバッグに突っ込んで下階に降りた。エレベーターに乗り、その間にビルの出口を考える。オフィスビルなら出口は一つだが、ここは普通の店とオフィスの混じったビルなので出口は3箇所ある。
「裏面」
 パトカーのあるところに出ることにした。このパトカーの警官がまずターゲットのところに向かうはずだから、これが安全な策だろう。ライフルの処分方法は初めに段取りが出来ているのでそれさえ間違わなければ、いい。

-----

 女の名はリサ。その名は本当のものなのかどうか誰も知らない。顔立ちから日本人であることは確かで、若いことも分かるが年齢の想像は付かない。その目付きは時に鋭いようで時に優しさも見え、人の意識を吸い込みそうな雰囲気をたたえている。普段化粧気は殆どなく紅を軽く引いている程度で眉も剃ったりはしていない様子だが、彼女をふと見かけた誰もが男女の区別なく思うことは、ただ一言、美人。派手さはなく、静的な美しさ。だが、リサに実際に関わった人はそうではなく、それぞれに違った感覚を覚えるらしい。
 朝、昨夜の仕事を終えた翌朝。リサはシャワーを浴び終えてタオルを体に巻くと、そのタオルが置いてあったところにある赤黒い鈍く光るものを手にした。それはリサのしなやかな手では少しバランスが悪い大きさの金属の固まりで、形は拳銃そのものだった。
 リサは何かに気付いたような表情をすると緊張したように銃を持ち直して、静かに脱衣場の扉を開けてゆっくりと歩を進めた。辺りを警戒しながら物音を全くたてずに、銃を軽く下に向けて少し屈んだ姿勢で歩く様は明らかに慣れている様子で、それほど広くもないマンションの部屋をゆっくりと進んでいく。
 廊下の角に来ると壁に隠れる体勢を取る。拳銃を自分の胸元に持っていき上を向けて一呼吸置くと、ためらうこともなく体を翻して進路に向かって仁王立ちして銃を構えた。その動作にも音は立たない。強いて言えば体に巻いたタオルの裾と二の腕あたりまでの長さの濡れたままの髪が軽く舞って空を切った音が少しした程度だ。構える様は痩せた体型から弱々しく見えそうだが、実際腰が座ってほどよく力強く、射撃に慣れていることを感じさせるものである。
 視線の先に誰もいないことを確認したリサは胸元のタオルの結び目を締めなおして次の角、リビングの目の前に進んだ。
 普通なら3秒ほどで歩くところをその5,6倍かけてくると、リビングの手前でさっきと同じく隠れた。
 今度は明らかに気配を感じる。それでもリサはさっきと同じようにためらわず前に出た。銃を前方に突き出すように構える。直後に声がした。
「ん? おわあ!」
 リビングのソファでは男がリサに気付いて驚き仰け反っていた。
 リサはそれを見てその男に言う。
「何だ…ヤスか」
 それでも銃口はヤスと呼ばれた、リサとそれほど体格の変わらないような男に向けられたままだった。
 ヤスはそれに戸惑って、
「ちょっとリサさん、それはこっちから外してくださいよぉ」
と銃口を自分から外すように言うがリサはそれを無視していつでも撃ち殺せるようにしたまま訊く。
「何で今こんな所にいる?」
 ヤスは生きた心地がしないまま答えるしかなく、無意識の内にソファの表面をいじりながら、
「いや、仕事を持ってきたんだけどインターホンに出ないんで帰ろうと思ったら、気配がしたんで驚かそうと…」
「どうやって入った?」
 尋問は続く。当然のようにリサの右手の人差し指がヤスの命を握っている。
「え? ピッキング…」
 それを聞いてリサは呆れた様子で銃を下ろした。
「ふん、そう。元泥棒だったな、あんた」
「ええ、まぁ」
「殺し屋を驚かせてどうする?」
緊張は解けているが冷たい感じの言い方は変わらない。リサは銃の安全装置ノブを回して胸とタオルの間に挟み、ちょっとタオルを引き上げると、
「どれ、お見合い写真見せて」
と、ヤスの向こうでソファに転がっている紙袋を見て近寄っていき、上半身がヤスをまたぐような形で腕を伸ばした。
「おいおいおい」
 ヤスはリサの濡れたままの髪の毛が自分の顔に掛かって驚いて、さっき以上に仰け反ってリサに紙袋を渡さないよう左腕を紙袋に被せた。
「なに?」
 リサはそのままの無理な姿勢で文句を言う。
「着替えてきてください。風邪引くって」
「ん?」
 リサは紙袋に伸ばした手を頭にやって、濡れているのを確認した。そして笑った。
「気ぃ使ってくれんの? ヤス、このカッコ気に入らない?」
 ヤスは返答に困ってしまった。頭の中には複雑な思いがよぎる。…気に入るとかそういう問題じゃない。こんなことされてドキッとしない奴なんていないし、喜ぶだろうよ。でも、それが悪魔だって知ってたら、ビビるだけだって。ついでにその冷たい言い方どうにかならんのか。
 ヤスは小柄な男で、リサより一回り大きい程度。歳は30過ぎであるように見えるが彼の年齢も誰も知らない。
 リサは立ち上がって、
「ま、そういうなら着替える。どんなコスプレがいい?」
 またヤスが戸惑っていると、リサは銃をタオルから取り出しくるくると回し、半笑いで続けた。
「…看護婦?」

-----

 着替えを終えたリサがリビングにやってきた。革の黒いパンツにシャツを羽織っただけの格好で動きやすそうである。痩せた体にすらっと伸びた脚なので実際よりも身長があるようにも見える。髪はポニーテールを上に丸めたような形になっているので実に活動的なファッションだといえる。
 ソファで新聞を読んでいたヤスは、
「最近は素人の殺しが多いな」
と呟いてからリサの気配に気づいて顔を上げた。その目には、少しかがんで腰のベルトに銃を挟めるリサの姿が映った。
「リサさん、ちょっと銃は勘弁してくださいよ」
「火薬じゃないんだから気にしない」
 発声の仕方や声は普通の女性のものなのだが、官能的で冷徹な感じが強く現れる。
「それ空気でも特注で危険でしょうが」
 ヤスは文句をいいながらも「お見合い写真」をリサに手渡す。リサはそれを開いて写真とプロフィールをじっくりと見た。
「ヤス、これヌルい仕事じゃない?」
「え?」
 ヤスの血の気が少しだけ引き、自然にヤスの手から新聞が離れる。その新聞の一面には『市川議員射殺される! 凶器のライフルは不明』の文字が躍っていた。
「今度は殺らないでしょう? 目的は何?」
 見合い写真だというのは嘘で、ターゲットの情報が載せてある書類。ただし万一紛失しても何の問題もないように作られているため、見かけはどこからどう見ても見合い写真にしか見えない。実際に見合いに必要なもの以上の情報はそこにはないが、リサはいつもその程度の情報を手にするだけでターゲットを葬ってきた。ターゲットに警戒されないようその生活に入り込んでいって安全に葬るための情報を得るのがリサのスタイル。昨日がその一例だ。
「目的は、ですね、えー、玉の輿の片棒…」
「何」
 リサが小声ながらも強い言い方になったためヤスは片目を閉じておののくような姿勢になった。
「そんなのあたしでなくてもできることだ」
「ん、んー、そうでもないんですよ。とりあえずターゲットから許嫁を引っぺがすには相当の魅力が必要で」
「あたしに魅力を求めても仕方ない。殺るために近寄る程度の誘惑はやるが、気を惹くなんてのは興味ない」
 リサは床に腰を下ろして長い脚を崩した。ヤスにはそれも格好よく見え、まさにこの仕事に「もってこい」だと再認識していた。
「いや、それはお手の物でしょう。むしろ、リサさんの面白い一面が見られるんじゃないかと思ってるんですよ」
 リサはその言葉に眉をひそめて軽くヤスを睨み付けた。本気で怒っているという感じではない。本気で怒ったらヤスは死んでいるだろうから。
「どういう意味」
「それはいいとして、ちゃんとお見合い資料見ました? お相手は地元、足立の名士の御曹司です。ってことで許嫁がいるわけですな。が、それを快く思わない女がいるわけです。あ、その女の存在はそこに書いてありませんね。で、その女が話を持ってきたってわけです。とにかく引っぺがせばそれで終わり」
「ふん」
「依頼者は狙ってるものがでかいですから、成功報酬は5本!」
 ヤスが前に突き出した「パー」の手をリサは胡散臭そうに見た。
「どうせ500だろ」
「そうです。500!」
「安い」
 これにはヤスの方が怒った言い方で、
「あのね、不況。わかる? 不況の中、気質が5本も出してくれんだよ?」
と、あまり似合わない腕組をした。そして立ち上がるとリサの視線も上に向く。朝の日差しがちょうどリサの視線と重なり目を細めた。
「それは分かったけど、報酬が安くても調達武器を安物にするのはやめろ」
「とにかく、引き受けてください」
 どうせヤスが持ってきた時点で断りようがないのだが。
「あ、あとですね、期限があるんですよ」
「急ぎなのか…理由は?」
「知りませんよ。期限は2週間」
 そう言ってヤスはソファから立ち上がった。
「ちょっと待ってよ。ヤス、その依頼人はあたしと比べて魅力があるの?」
「え?」
 ヤスはその質問の真意が分からず何と答えるべきか迷っていた。その割には平気でリサの冷蔵庫を開け、屈んで中身を漁りながらの「え?」だった。
「例えばあたしがうまくターゲットの心を許嫁からあたしに持ってくることが出来たとして…」
 ハムを見つけたヤスはビールとそのハムを取り出しながら振り返った。
「出来たとして、じゃなくてちゃんとやってください」
 ハムをむしり、ビールの缶を開ける。
「殺しなら確実だけど、こればかりは保証しないよ。…とにかく出来たとして、あたしが姿を消した後依頼人がターゲットを引き付けることが出来なかったら意味がない。それが前提の依頼でしょ?」
 リサの言葉をよくよく租借して、ハムも租借したところでビールを飲むヤスの手が下に降りた。
「確かに…少なくとも許嫁より魅力がないとねぇ」
「許嫁より魅力があったらこんな依頼はない」
 ヤスはハムをテーブルに起き、缶ビールを持ったままソファに腰を降ろした。
「む。魅力は…ないなぁ、あの女は」
「じゃ、受けないよ。そんなの時間の無駄」
 リサが立ち去ろうとするのでヤスは慌てた。
「あー、じゃぁ、許嫁を殺しましょうか?」

-----




Novel H-SHIN's rooms
HSR