「はぁ」
Cassiopeia事務所の日下部は、夕方になってようやく晴れ始めた空を見上げてため息をついた。
響子によれば、少年の名前が確かに『あきら』であり喜多島家の一人息子であることは父親の喜多島 誠に確認したそうだ。また、晶の音読み『しょう』は愛称だということだ。ただ……。
「え!?」
響子は本当に自分の耳を疑った。喜多島氏はその様子に呆れたようで、
「もう一度言いますよ。晶の母親は生きています。私と離婚はしましたが、存命です」
先ほどと同じ科白(せりふ)を口にした。
恐らく、晶はそうなることを察したのだろう。父親が響子を家に迎えたと分かったとたんに逃げ出していた。
……日下部は、響子から聞かされた話を思い出し、再びため息をついた。
この事実だけなら、ただ、午前の時間が無駄になっただけで大した問題ではない。悲しいが、どうせ丸一日潰れてもその間に客を逃す可能性はないだろうから。
「問題は、問題!」
パニクったかのような科白を日下部が吐くのも無理はない。響子に、
「明日の授業参観までに本物の母親、倉持政恵(まさえ)を見つけ出して」
と命じられたのだ。
何も同じ名字のよしみで探さなくてもいいじゃないか。んな、今日の夜だけで見つけられるわけないだろう。第一、母親のほうは息子に会いたくないかもしれないし、迷惑な筈だ。それも、誰に依頼されたわけでもないし。
そう、喜多島誠には、
「晶の言うことには一切耳を貸さないで下さい。この件は忘れていただきたい」
と言われており、捜索の依頼など全くされていない。見つけ出したら怒られかねないくらいだ。
そして響子は日下部に仕事を押し付けておきながら帰宅してしまっている。
「あーあ!」
社長の命令に逆らえる筈もなく、日下部は電話帳を漁り始めた。
「倉持、倉持……」
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巴はナンパに適した男が渋谷にいないので早々に見切りをつけて帰路についていた。
隣駅の近辺に差し掛かったときに、聞き慣れた言葉の書かれた看板が目に付いた。
「便利屋業務カシオペアね。カシオペアぁ」
そのまま、巴が中古で買ったRAV4はCassiopeiaの事務所を通り過ぎていった。
「……あぁ!?」
慌ててUターンをして戻る。事務所はガラス張りなので夕方でも中がはっきりと見えた。
「あ、軟弱男がいる」
必死で分厚い本を読み漁っている様子がうかがえたので何か邪魔をしてやろうと考えた。
幸い昨日とは全く異なる格好、髪型をしているのでサングラスを掛ければ正体はばれないだろう。
茶色がかったサングラスを掛け、路上駐車のままRAV4を降りる。サイドミラーで自分の容姿をチェックして一言。
「ばれないでしょ!」
堂々とCassiopeia事務所に入ると日下部はそれに気付いて、
「あ、いらっしゃいませ。どういったご用件でしょうか?」
派手な格好の巴をソファに案内した。
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「あはは、何よそれ!」
恵は巴の土産話に呆れながらも喜び、爆笑していた。
「巴ちゃん、本当に気付かれなかったの?」
恵は笑いすぎて出た涙を拭きながら巴に訊いた。
「やっぱりこの格好じゃ分からないんじゃないですか?」
巴は、客の振りをして日下部に近づいたのだった。浮気の素行調査を懇願しながら、前夫に奪われた子供の捜索を依頼してみた。もちろん全て出鱈目であったが日下部は予想通りに混乱していた。そこで巴は苛立った振りをして、旦那を置いて引っ越しをするから料金を教えろ、と出て、都内間であれば実費込みで3万5千円であることを聞き出していた。
「お見事。危険を冒したことは誉められないけど、結果が良ければそれでいいもんね」
恵は正直、巴が自分の願いを叶えるためにここにやってきたのではないかと感じていた。巴は単純に『怪力』という言葉に恨みを持って日下部をはめただけ、これが真実なのだが……。
同じ頃、日下部は電話帳から視線を上げてあの、声が怪力女にそっくりの女性に間違った料金を教えてしまったことを悪く思っていた。開業当初は3万5千であったものを見直して、思い切って2万5千円にしたということを忘れていたのだ……。
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翌日。朝焼けが美しく街をセピア色に染めている。その日差しが原因か、深夜まで電話帳と格闘し、机に伏して仮眠を取っていた日下部が目を覚ました。ガラス張り故に、眩しい光が目に厳しい。
目を細めながら日下部は枕にしていた電話帳を開いた。倉持政恵という名前は分かっているものの、再婚の可能性もある。何か手がかりがないかと殆ど全てのページを調べる必要があった。しかしそれは暗中模索としか言いようが無い。
あれ……? どうして社長は晶の母親の名前を知っているんだ? ん……?
不思議に思った日下部を驚かすように電話が鳴った。
「はい?」
「あ、日下部君、起きてた?」
響子だ。
「ええ。どうしました?」
「……見つかった?」
寝ぼけていた日下部の堪忍袋の緒が切れた。
「社長、見つかるわけないでしょう! 自分は帰っちゃうし!」
「え、あ、私、あの後は帰ったんじゃないの」
「う……あれ、違うんですか?」
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時計の針を一日戻すことにしよう。響子は日下部に倉持政恵の捜索を任せた後、再び喜多島邸に足を運んでいた。
「晶君にもう少しお話をうかがいたいと思いお邪魔しました」
喜多島氏は玄関から先に通すつもりが全く無い様子で、しかめっ面で立っていた。
「冗談じゃありませんよ。お宅がどうやってうちの事情を知ったのか知りませんけど、迷惑なんですよ。便利屋と言いながら、勝手に仕事をして金を取るつもりですか?」
「いえ、そういうことではありません。これをご覧下さい」
響子は晶に渡されたメモを喜多島氏に見せた。メモには小学校への喜多島邸からのルートが図と言葉で書かれていた。更には、成功報酬が1万円である旨まであった。
「晶君は、私が来たときのためにと本当の母親の名前も書いていました。名簿に記帳するときのためのものでしょう。賢い子ですね」
喜多島氏は30代前半に見える色黒で快活、爽快な感じの男性だ。極端ではないが腕が太く、上半身の隆起を見てもスポーツマンであることがうかがえる。大学でだけではなく今もスポーツが趣味と見える。しかし、響子の台詞でその顔は苦々しいものになっていた。
「息子も本当は実の母親を求めているはずです。余計なことをしないでいただきたい」
「それは当然ですがしかし……」
引かない響子に喜多島氏は突然激怒した。
「何なんだ、あなたは。しつこく付きまとって仕事を取ろうとするとは、女性はしつこいですね! あなたじゃ話にならないから上司をここに連れてきていただきたい!」
響子は驚いた。まさか突然怒りだすとは。女性はしつこい、という言葉にも驚く。
「私、まだ述べておりませんでしたが、Cassiopeia社長でございます。小さい会社ではありますが、私が社長です」
一瞬、驚いたような表情になった喜多島氏だが、それを隠すように不適な笑みを浮かべた。
「なるほど。会社の質も疑わしいものですね。お帰りください。……いや、待った」
あきらめて振り返りかけた響子は動きを止めた。
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