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第三話 第二節

君は君のまま
第四話おかあさんといっしょ 第一節

 どこに行っちゃうの? ねぇ、おかあさん。
 答えてよ、おかあさん。いなくなっちゃうの? 僕を置いて行っちゃうの? 嫌だよ。
 あなたを見捨てたりはしないわよ。だから良い子でいるのよ。ちゃんとおとうさんの言うことを聞きなさい。
 嫌だ。おかあさんがいないならおとうさんの言うこと聞かない。
 まぁ、聞き分けの無い子ね。そんな子は嫌いよ。
 僕は、そんな事言うおかあさんが……嫌いだ。

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 11:30、これ以上もこれ以下もないという曇天。便利屋『松坂屋』は昨日の御犬様競争の精神的疲労が抜けず、情けないことに休業日となっていた。そしてその社長、松坂恵は貧相なソファに寝転がってTVを付けっぱなしにしたまま考え事をしている。
 開業して8日目。この商売に必要なものがいろいろと分かってきた。軽トラック、効果的な宣伝、梯子や大工道具。それらを置くためのスペース。この部屋とは別の事務所      店舗といえる事務所も欲しいし、人手も必要だ。そして忘れてならないのが敵『Cassiopeia』との駆け引きの強さだ。
「あとは忍耐かな」
 恵は呟いて何気なくTVを見た。ニュースでアナウンサーが何やら喚いている様子。
「このままですと世界の経済が破綻してしまいます!」
 恵の目が据わった。
「TVって違法なくらいに煽るのよねぇ」
 独り言をして、遅い昼の朝食      英語で言うならblanch      の支度に入った。
 社員兼居候の三宮 巴(さんのみや ともえ)は朝からどこかへ出かけている。
 元気よねぇ。

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 一方、便利屋『Cassiopeia』の倉持響子社長は事務所ではなく自宅にいた。昨日見た『おかあさんになってください』の張り紙が気になって出社する気になれなかったのだ。普通なら大して気にもならないことだが、母を亡くしたばかりの響子にとっては特別の響きを持っている文だった。考えてみれば、考えるまでもなく自分もいつかは母親になり得るわけだ。果たして自分は母のように、育児をこなしながら財を成せるのだろうか、という不安が頭に木霊(こだま)する。別に財を成す必要はないのにそのように考えてしまうのは、やはり父親というものを全く知らずに女手一つで育てられた者の性(さが)なのだろうか。
 不安を払拭するように頭を2,3度振って響子は二階に上がる。部屋のパソコンを見て、株を買ってから1週間が経ったことを思い出した。
「どこのを買ったっけ」
 期待していなかっただけあって銘柄を思い出せない。ネット世界に入って調べると、飲料食品企業「ジラフ」の名前があった。
「そうそう、そうだった」
 期待しなかったのは正解と言えよう。買った時点で随分と下がっていた株価が更に下がっていたのだ。それも、このまま倒産するのではないかというくらいの勢いだった。
「いらない」
 泣く泣く、と言うのかどうかは分からないが、20万円分の株全てを売り払うことにした。結局手数料などもあって、その20万円がほぼ10万円になってしまった。
 頬杖をついたままマウスをいじくるだけで簡単に解約できるのは、便利さよりも虚しさを強く感じさせる。そう感じるのはわがままだからなのか、古い人間だからなのか……。
「あーあ、もったいないことした」
 大してジラフに期待していなかった割にふて腐れて、1階のリビングに戻ってきて何気なくTVを点けた。
 普段の響子の雰囲気      スーツの似合う和風美人      からはとても想像できないことだが、カーペットに直に寝そべるのが大好きで毎日夜の暇な時間帯などにはこのようにしていた。いつもと違って今は朝だから一味違った感覚だ。
「うーん! ここが天国」
 TVのリモコンを持ったまま、猫さながらの伸びをして大きく深呼吸。これで意識的に悩みを忘れた。その忘却が一時的なのもだとしても、それは精神衛生上重要なこと。
 ソファがあるのに座らないという一種の贅沢。転がれば自由に部屋を占有できるという開放感。響子はそんな感覚を楽しんでいた。そんな中、TVの声が耳に入る。
「世界中の株価が暴落していまして、このまま世界は崩壊するのでしょうか。経済評論家の……」
 響子は立ち上がってソファに座り、TVを見てみた。ゲストの経済評論家、随分と痩せこけた中年で、今にも消えてしまうのではないかと思われる。
 そこに電話。普段の機敏さはなく、気の抜けたまま受話器を持ち上げた。
「はい、倉持ですが」
「社長、クライアントがいらっしゃいました」
 日下部慎太郎(くさかべ しんたろう)の声だ。響子は時計を見て、
「10時か。分かったわ。今すぐ行く」
 瞬時にいつもの姿に戻った。

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 日下部はCassiopeia事務所の自分の机でボーッとしていた。
 社長は何か暗いんだよな。一応、客商売なんだから笑顔を身につけておけばいいのに。何と言うか、影があるんだよな。
 改めて響子の掴めない性格を考えていた。響子が母を亡くしてその財産を維持しようとしている、ということを日下部は知らないのだから暗さを理解できないのは当然だろう。
 そういや、うちと違って松坂屋の社長は小柄だったなぁ。気の強そうなところはまるきり同じだったけど。仮に松坂屋に入っていたとしてもこき使われたんだろうな。って別に便利屋になりたかったわけじゃないんだから、そういう仮定はおかしいな。俺は電気工学やるんじゃなかったのか!?
 一種の自己矛盾に気付いて突然苦笑いをした日下部を見て、事務所のソファに座っていた小学生の男の子が不思議そうな顔をした。この小学生は最終的には日下部を気に留めなかったようで、先ほどまでと同じように、短いせいで宙に浮いている足を軽くぱたつかせはじめた。
 静かな、ガラス張りのCassiopeia事務所。晴れていれば周りの並木や植え込みが映えて非常に心を和ませる環境だが、今日は生憎の曇天故に和やかな光は入り込んでいない。
 日下部はダッジバイパーのエンジン音がやってきたのに気付いて、椅子に座ったまま体を乗り出して外を見た。それは確かに響子のバイパーだった。そして日下部は自分の勘が当たったことで満足顔。
 事務所の扉が開いてスーツ姿の響子が颯爽と入ってくる。自宅で悩んでいた姿、カーペットに寝転がっていた姿など微塵も感じさせないところが凄い。
「日下部君、クライアントは?」
「こちらに」
 日下部が指差したソファには男の子がいるだけ。
「親の方はどこに行ったの?」
「え? ……ああ、クライアントです。この子が」
 日下部は響子にソファに座るように促した。その様子に響子は嫌な予感を覚え始めた。

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 恵の、古臭いアパートの部屋のチャイムが、見掛けに似合った古臭い音で鳴った。
「はい?」
 無防備なことにインターホンを使わず、チェーンも掛けずにドアを開けると巴が……。
「何、その格好!?」
 恵は思わず素っ頓狂な声を挙げた。
 巴の奇麗なストレートヘアーがソバージュに、それも茶色になってしまっていたのだ。それだけではなく巴は派手な、色とりどりのビーズのようなものがちりばめられた、右半身がシースルー気味になっている白い服を来ていた。スカートは極ミニのデニム。それは遊び人を絵に描いたような格好だった。そして明るい表情がその服装にマッチしており、尚一層遊び人の雰囲気を醸し出している。
「どうですか? 似合っているでしょう?」
 巴はアパートの外廊下でくるっと回ってみせて微笑んだ。もちろん恵はそんなことなどを訊いたわけではない。
「どうしたの、失恋?」
 恵は心配そうに巴の顔を覗きこんだ。
 一方、巴は恵の質問に驚いていた。どういう思考過程を辿ればそこに行きつくのか理解できない。
「失恋なんかする前に、恋愛をする暇があると思いますか? 履歴書見て知っているとは思いますけど、ここにくる前はいろんなバイトに明け暮れる日々だったんですよ」
「あぁ、それもそうね。で、クビになってばっかりだったんでしょう?」
 恵は、雇ったときから巴のストレートヘアを見て気に入っていた。それをものの見事に染めたソバージュに変えられてしまったので、自分の髪をいじられたわけでもないのに自分でも気付かないうちに腹を立てていた。そのせいで嫌味をにじませた言葉が口を突いて出てくる。恵自信、その感情の身勝手さを感じ始めて尚のこと苛立ってしまうという状況に陥ってしまった。
「ちょっとぉ、それは無いんじゃないですか?」
 巴がぷくーっと頬を膨ますと恵は怒ったように、
「はいはい、私が悪かったわよ」
と部屋の奥に行ってしまった。それを慌てて巴が引きとめる。
「ちょ、待ってくださいよ! 何を怒っているんですか? 待って、まだ見せたいものがあるのに!」
 巴の声に恵は仕方無いように耳を傾けた。
「何よぉ」
「凄いですよ。大きな買い物をしてきたんです」
「えぇ?」
怪訝な顔の恵。
「こっち来てください」
 巴に従って恵が外へ出、アパートとは無関係の近くの駐車場へ来ると巴は走り出して、とある車の前で自慢気に立ち止まった。
「どうですか、これ!」
巴はそのエメラルド色の車を軽くポンポンと叩いた。もっとも、巴のことだ。常人よりは強い力であろう。そしてそのことに本人は気付かない。
「それ、借りたの?」
恵はレンタカーだろうと思いながら訊いてみた。
「違います違います。買いました。RAV4!」
 その車はボディの重心が高くなっているデザインで、ジープに分類されるものだ。それでも、柔らかい曲線でボディの隆起が表現されているためにジープと言うには弱い感じで、通常のセダンなどに比べれば遥かに快活という微妙な雰囲気をたたえている。
 恵はこの車がどのような用途に使われるのか分からなかった。
「でも、これ、いくらしたの?」
「凄いでしょう。これで行動範囲が広がりますよ」
 わざとか否か答えになっていない。
「そんな、行動範囲を広げる必要があるの?」
「大あり! 昨日は軽井沢に行ったでしょ。仕事に使えるようにこの車にしたんですよ。ちょっと小さいかも知れないけれどそこそこ荷物が積めます」
「仕事なら、軽トラックにしてよ。どうして勝手に決めちゃうのよぉ」
 恵のその言い方に巴は困惑したが、すぐに事態を把握した。
「あ、これ、私のお金で買ったんですよ。経費じゃなくて」
「え、あ! そうなの。なあんだ、びっくりした」
 恵は一安心。一方で、巴が仕事のことも考えているということが分かって意外に感じた。しかし考えてみれば巴も松坂屋が無いと困るのだから、仕事を重視するのは当然だ。
 その後に恵の頭をよぎったのは……。
「で、いくらしたの?」
 それに対して巴は露骨に嫌な顔をした。

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第三話 Novel H-SHIN's rooms 第二節

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