日下部は焦った。3つ目の罠の中には何もいなかったのだが、代わりにその側にドーベルマンがいたのだ。更にその近くには見知らぬ小柄な女性が骨とロープを持ち、姿勢を低くして立っていた。ドーベルマンの様子を覗っているらしく、ゆっくりゆっくり近づきながら、
「クロちゃぁん、おとなしくしていてねぇ。はい、骨ぇ」
と言って骨を差し出した。
クロ……松坂屋か。怪力女の仲間だな。邪魔してやろう!
日下部の後から車を降りた響子もその様子を見て同じことを考えたらしく、小石を拾ってきた。
それを恵は冷静に察知して動きを止め、
「邪魔はさせないわよ、カシオペアさん。こっちはおたくのターゲットであるダイちゃんを捕まえているんだからね」
と言った。視線はクロちゃんに向けられたままだが、むしろそれ故に日下部と響子は圧倒された。
恵はそのまま続けた。
「信じなくてもいいけど、後悔するのはそっちだと思うからね」
それに響子が応対した。
「信じるわ。取り引きをするってことよね?」
「まぁ、そういうことよ。クロちゃんを捕まえてくれたらダイちゃんを渡すけど」
「もし、私たちが失敗しておたく……松坂屋さんが捕まえたらどうなる?」
経営者というより女同士の緊迫した空気に日下部は割り込まないことにした。
触らぬ神にたたりなしってことさ。
「うちが捕まえたら、ダイちゃんはどこかへ逃がすわ」
「なるほど。やりましょ。その骨を貸していただけないかしら?」
「いいわ」
恵はもう一本骨を取り出して、もともと持っていた骨でクロちゃんを引き付けておいてから、取り出した方の骨を響子に投げた。
「日下部君、檻に入れることにするわね」
「はい。頑張ってください」
逃げ腰の日下部。
「ちょっと、日下部君がやるの」
響子は骨を無理矢理日下部に渡した。日下部は仕方なく、自分の骨の方にクロちゃんを引き付けさせることにした。
「こっちだぞぉ」
雄犬というものは女性のフェロモンに引かれるので日下部には見向きもしない。5分ほど膠着状態が続いた。その間恵も身動きが取れない。
痺れを切らした日下部が、
「こっち向け!」
と怒鳴ったのでクロちゃんは日下部の骨 日下部が持っていた骨に噛み付いた。
「げ!」
日下部が骨を放そうとすると、
「駄目!」
響子が怒鳴ってそれを止めた。
恵は呆れて、冷静にクロちゃんの首にロープをかけて、ダイちゃん同様に近くの電柱に結び、
「放して結構よ」
と言った。
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8時半。橘喜代美は家の門にいた。黒塗りのハイヤーがやってくる。
「お待たせいたしました」
「電話で言った通り、軽井沢の別荘まで行って頂戴」
「はっ」
音もなくハイヤーはその場を後にした。
その後を巴が走って追いかけて行くが追いつく筈がない。
「ああ、依頼人も連れて行こうと思ったのに!」
とぼとぼと歩いてダイちゃんのもとへ戻ると携帯電話が鳴り出した。
「はい」
「巴ちゃん、ドーベルマンを捕まえたからトラックで来て欲しいの」
恵からだ。
「捕まえたぁ!? もう捕まえたんですか?」
「そうよ」
「どうやって? 見つけたら私を呼ぶんじゃなかったんですか?」
「呼ぶ余裕がなかった。はは」
「……噛まれたらどうするんですか!!」
巴は怒鳴った。
「噛まれなかったから結果オーライよ」
そういう問題じゃないと思うのよね……。
でも、社長である恵に強く言うことは出来ないので巴は何も言わないことにした。
「分かりました。行きます。ダイちゃんはどうしますか?」
「そのままにしておいて。場所はね……」
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軽トラックの荷台にクロちゃんはいた。恵たちの用意した檻の中で観念して寝ている。
「捕まえたのは私だから、ダイちゃんは逃がしてしまいたいところだけど、カシオペアのお二人がいなかったら無理だったのでお渡しします」
恵はトラックの助手席から響子と日下部の2人に言った。
ここはダイちゃんが電柱につながれている所。まだダイちゃんはつながれたままなのでカシオペアがハンディキャップを負う形だ。
響子は睨むでもなく、むしろ微笑んで、
「わかりました。でも負けませんよ」
と答えた。軽トラックとダッジバイパーでは速さが違うのだから、多少不利でも余裕というわけだ。
そして軽トラックが走り去っていく。響子と日下部は急いでバイパーをダイちゃんの近くに寄せて縄を解き始めた。
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9時過ぎ。完全に日は昇って、気持ちいい快晴。昼には蒸し暑くなるかもしれない。
恵と巴の軽トラックは高速道路をかなりの速度違反をして走っていた。
「圧勝ね」
恵の余裕の表情に対して、運転している巴は冷静な表情で、
「相手の車はバイパーでしたよ。厳しいと思います。ダイちゃん、逃がしちゃえば良かったのに」
と水を差した。
それから10分後、高速道路が混み始めてきた。
既にダイちゃんはバイパーの後部でおとなしくしている。大したロスをしないで出発できたにもかかわらず松坂屋の軽トラックが見えないのが響子たちの気がかりだった。
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