先ほどの巴の声に日下部は固まっていた。
「嘘ぉ。怪力女、もういたの……」
「松坂屋がいたことよりも向こうの犬が発見されていることに驚きなさいよ」
何時の間にか響子がそばに来ていたので、それに気付かなかった日下部はびっくりした。
「あ、いたんですか」
「檻は準備できた?」
「はい、一応……」
カシオペアは罠を準備していた。この罠は、予め橘喜代美に聞いておいたダイちゃんの好物であるマグロの刺し身、それも大トロを檻の中に仕掛けたという単純なものだ。しかし、好物が魚というのはどういうことだろうか。金持ちは見境なく高級なものを食わせるようだ。もしかするとドーベルマンのクロちゃんの方は人肉が好物なのかもしれない……。
セントバーナードを捕まえるわけだから、檻は人間が入れるほどに大きいものだ。従って、簡単に準備できるように組み立て式のものをレンタル屋から借りていた。個数は3。
「OK。少し車で休みましょ」
「はい」
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犬の群れに近づくというのは勇気が要るもので、巴でさえ恐る恐る近づくのが精一杯。恵など、既にリタイアして巴に任せっきりだった。巴の右手には輪を作ったロープ、左手にはあのチキンの骨2本がしっかりと握られている。そして否応なしに両手の汗腺は活発に汗を吹き出していた。
「どうしよう……」
10頭の野良犬らしき連中を骨で手なずけることが無理のように思えてきた巴は作戦変更を決意した。
一方、その様子を離れて見ていた恵は苛立って、砂利の上で足をカタカタと鳴らしている。
何をやっているのかしら? さっさと骨を使ってその隙にロープを首にかければ良いのよ。
なら自分が行け、と言われそうだがここが経営者と社員の立場の違いである。
一方、巴はごくりと唾を飲みこんだ。茶色の犬と目が合ってしまい、動けない。
噛まないでよぉ……。どうしよう。
「…………。そらっ!」
巴は掛け声と共に骨を1本遠くに投げ、続けざまに違う方向にもう1本を投げた。クロちゃん、ダイちゃんを含む10頭の野良犬たちは両方に気を取られて一瞬身動きが取れなくなったので、その隙に巴はロープの輪の部分をクロちゃんめがけて投げた。一刹那後に犬たちは吠えたかと思うと、各々が思い思いの方向へ駆け出していった。
巴の手に握られたロープに大きな力が掛かる。ロープに捉えられた犬も骨に向かって駆け出そうとしているのだから当然の事であった。巴は怪力、もとい強い力でロープを引き戻したがさすがに素手では皮がむけそうになり耐え切れない。
「た、たす……けて……く……ださい……! く……」
綱引きの体勢になっている巴のその声に恵が慌てて駆け寄り、加勢した。
「助かったぁ。恵さん、何があっても放さないで下さいね」
「ん、うん」
巴のものの言い方にきょとんとしていた恵だったが、次の瞬間我が目を疑った。巴が犬に飛びついたのだ!
乱暴に犬を羽交い締めにし、恵にロープを柱にくくりつけるように促した巴は、ロープが電柱に結ばれたのを確認して立ち上がった。
「完璧ぃ!」
「凄いことするのね……どこが完璧よ。それ、クロちゃんじゃないのよ」
恵の怒ったような声に巴は戸惑い、犬を見、愕然とした。そこには、ロープで柱に繋がれておとなしく「お座り」しているダイちゃんがいた。
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時は7時半になっていた。橘喜代美はベッドから起き上がり、部屋で洗面を済ませて着替えるとTVを点け、内線でメイドを呼び付けた。
程なくドアがノックされる。
「入って」
声と同時にドアが開いてあのメイドが一礼。
「朝食はいかがなさいますか」
「そうね。トーストサンドお願い」
「かしこまりました」
メイドが去ろうとしたときに、窓の向こうから大声が聞こえてきた。
「だぁ! 何で猫がいるんですか!!」
喜代美はその声に聞き覚えがあったが誰のものか思い出せない。それをメイドは察したらしい。
「昨日来たカシオペアの日下部という者ではありませんか?」
「ああ、そうね。そうだわ。頑張っているみたいね」
喜代美とメイドは馬鹿にするように鼻で笑った。
「じゃ、朝食、お願いね。8時半にはここを出るわ」
「承知いたしました。失礼します」
メイドがいなくなると喜代美は窓を開けて外を眺めた。日下部の姿は見えないが、あの声からして苦労しているに違いない。その様子を想像してもう一度ほくそ笑む。
いい暇つぶしね。馬鹿が寄ってたかって犬を探しているなんて。そういえば、あの怪力女はどうしているかしら。
道楽はまだまだ終わりを迎えそうにない。
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「だぁ! 何で猫がいるんですか!!」
この声は確かに日下部のものだった。
罠を見に戻ると、檻の中で野良猫たちが大トロを平らげていたのだ。
「なるほどね」
響子も、大トロが無駄になったために落胆を隠せなかった。
「まだ、残り2ヶ所あります。見に行きましょう」
虚しい余韻が残る言い方だ。
「うん、そうね。そうするしかないわね」
ダッジバイパーに戻った二人、全く言葉を交わすことなく2つ目の罠の所に来た。
「あ、犬がいますよ」
日下部が言う前から響子はそれがダイちゃんではないことに気付いていた。
「はずれね。最後に期待しましょ」
諦めきれない日下部は響子の声も聞こえないのか、檻に向かって行き、屈んで檻を覗いた。
そこには巴が投げた骨を咥えている犬がいた。刺し身には一切関心を示さないで骨を一心不乱にしゃぶっている。骨がここまで転がってきたのだろうが日下部は知る筈もなく、
「お前、その骨どこで拾ってきたんだ?」
などと犬に無駄な質問を投げかけてみた。
そして響子はその様子を見て悲しくなった。
一生懸命なんだけど、情けないと言うか、打たれ弱いと言うか……。使えるのか使えないのか分からない人物よね。
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辺りは随分と明るくなり、通りにも人が目立つようになってきた。重役を迎えに来た車の運転手や、車や歩きで学校に向かう子供を見送るメイドなど、普通ではない面子だった。
もう8時にもなろうかという時間、巴はダイちゃんのそばにいた。恵はクロちゃんを探しに行き、巴はダイちゃんをカシオペアに奪われないように「見張る」役目を仰せつかっていたのだ。
巴は屈んでダイちゃんに話し掛けた。
「ねぇ、君、クロちゃんがどこにいるか知らない?」
「クゥーン」
悲し気なダイちゃんの声に巴は困った。
「ごめんね。羽交い締めにしたりして」
「クゥーン」
ダイちゃんはしきりに巴のバッグを気にしている様子だ。
「ん? あ、骨が欲しいのか!」
巴はバッグから、真空パックに入った骨を取り出した。パックを開けて渡すとダイちゃんは尻尾を振って骨を貪る。
「ハッ、ハッ、ハッ」
「なぁんだ、それだけの事かぁ。……で、クロちゃんの居場所は知らないのかな?」
ダイちゃんはふと顔を上げてある方向を向いた。そして一鳴き。
「あっち? うーん、方角だけじゃ分からないなぁ」
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