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第二話 第二節

君は君のまま
第三話御犬様競争 - battle - 第一節

 まだ朝もやが消えず、日も姿を見せていない静かな街を一台の赤いスポーツカーが唸りを上げて駆け抜ける。その後に何事も無かったように静寂が訪れる様は、静寂が騒音を追いかけているようだった。
 ガラス張りのビルは只々、道路や向かいのビルを自身に投影し続け、閉ざされたシャッターは全てを拒むようである。突如、白い軽トラックがその秩序をかき乱すように通り抜けた。

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 静かな住宅地に赤いスポーツカーは砂利の音を立てて静止した。まず男が降り、続いて女が降りる。それぞれの手には軍手、足はスニーカー。よく見ると服装は洒落たジャージだ。それは倉持響子と日下部(くさかべ)慎太郎の二人。目的はただ一つ、セントバーナードの『ダイちゃん』を探し出すことだ。
 日下部が腕時計に目をやった。
「5時半か」
 響子はその呟きを聞いて日下部に歩み寄り、
「敵はまだ動いていないと思うわ」
 と小声で言った。
 ん? 敵?
「あのぉ、敵って、松坂屋ですか? それともダイちゃんですか?」
 日下部のもっともな質問に響子は苛立って、
「もちろん両方よ」
答えながら歩を進めた。
 日下部は響子に付いて行きながら新たな疑問を抱いていた。
 何で「『もちろん』両方」と言えるんだ? あの表現じゃどっちだか分からない状況じゃないのか? いや、分からない俺が変なのか……まさか! おかしいのは社長の感覚に決まっている。これを理解するのは簡単なことじゃなさそうだ。
「さ、行きましょう」
響子が、日下部の頭の中の声など知る由もなく軍手を深く入れた。

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 白い、レンタカーの軽トラックは橘(たちばな)邸の前で減速し、隣の家の前で停止した。
「巴(ともえ)ちゃん、ちゃんと骨持ってきた?」
 車の助手席には松坂恵がいた。つまり運転席には、
「ここにありますよ。でも、こんな骨を10本も使いますかぁ?」
 三宮(さんのみや)巴がいた。
「全く無いよりは無駄でも多い方がいいんじゃない?」
「昨日のチキン、これからずっと夢に出てきそうなんですけど」
 実はドーベルマンの『クロちゃん』をおびき出すための「武器」としての骨を用意するために、大きなチキンの脚10本を昨晩2人で食したのだった。
「何も食べられない貧乏生活に落ちたときには、その夢は便利よ」
 恵のその言葉に巴の目が据わる。
「3本しか食べなかったからそういう事が言えるんですよぉ。私は7本ですよ、7本! それも、普通の大きさの骨じゃドーベルマンには効かないだろうって言って巨大なチキン買ってきたのは恵さんなのに!」
「しっ、近所に響いたらどうするのよ。6時前なのよ。……本数の割合はね、体重比で決めたのよ」
「私の体重が恵さんの倍以上なわけないでしょ!」
 巴は自分の美しいストレートヘアーを子供のように掻き毟った。「恵さんの体重何キロですか?」
「36かな?」
「あたしゃ84キロかい!」
 巴は妙に計算が速いようだ。
「いいから、車を出して。まずは……」
 恵は巴を無視して地図を広げ、その一点を指差して続けた。
「ここに行くわよ。駐車場に犬は溜まるものだからね」
「へいへい……」
 どうやら橘邸を中心に探していく作戦らしい。

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 響子も日下部も広場以外にダイちゃんを探す当てはなかった。セントバーナードがいたら嫌でも目に付くのに見つからないということは、ダイちゃんが居そうにもないところを探さないとならないことになるのだが、そんなポイントは簡単には思い浮かばない。
 ダイちゃんの大きさが非常に目に付きやすいという点のメリットは、近所の人がダイちゃんの居場所を知っているかもしれないということであるが、早朝に聞いて廻れる筈はない。
「車の下とかは有り得ませんかね?」
日下部はいい加減に聞いてみた。
「猫じゃないのよ。それに入れるわけないでしょ。セントバーナードなんだから」
 しばしの沈黙。
 ……。
「あ! 居るかもしれない、車の下に!」
 響子が急に笑顔になって叫んだので日下部は一瞬たじろいだ。
「は? 社長、さっき、居るわけないって言ったばかりでしょう」
 響子は悪戯っぽく微笑んで、意図的ではないが日下部の心を揺らした。
「普通の車の下には居ないってことよ。でもトラックなら」
 日下部は言葉を聞いて我に返った。
「あ、なるほど。で、トラック見当たります?」
「……」
 二人の周りにトラックは全く見当たらない。
「……」「……」
「そう言えば、軽トラックが橘邸の近くにあった筈です」
「行ってみましょ」
 歩いて程なく、2人は軽トラックの所までやってきた。もちろんこれは恵たちのレンタカーだ。
「覗いてみますね」
 日下部は意外に素早く腹ばいになり、軽トラックの下を覗いた。
「いる?」
「いますよ。あの大きさはダイちゃんですね」
「いるの?」
「ええ」
 日下部は立ち上がって手をはたいた。「寝ています」
「そう。そっと持ち出せるかしら」
「やってみますよ」
 再度腹ばいになった日下部は、ほふく前進さながらの体(てい)でダイちゃんに近づいた。慎重に時間をかけてトラックの下にまで入りこんだとき、不運にもダイちゃんは目を覚ました。完璧に日下部と目が合う。
「ワウ!」
 ダイちゃんの一喝に日下部は驚いて頭をトラックの底部にぶつけてしまった。
「い……!」
 ダイちゃんは逃げる。響子は叫ぶ。
「逃げちゃったわ! 追いかけるから、来て!」
 響子は全力で駆け出した。格好が格好だけに朝のジョギングに見える。にしては速いが。
 セントバーナードの大きさからして鈍足に思えるが、とんでもなく速い。学生時代には陸上で名を馳せたという響子が全くついていけないくらいだから相当なものだ。そして角を曲がること5回、遂に見失ってしまった。やっと日下部が追いつく。
「済みません」
 2人とも息が切れて会話にならなかった。

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「はっけぇええん!」
 早朝にもかかわらず巴は大声で、離れた所でクロちゃんを探していた恵に怒鳴った。
「しっ!」
 恵は慌ててたしなめたが巴は懲りない様子で叫ぶ。
「こっちこっち!」
「……(汗)」
 仕方なく恵は巴の方に行ってみた。
 この娘、使える人材なのか邪魔者なのか分からなくなるわ。
「どうしたのよ」
 恵の問いかけに巴はさっきとは打って変わった小声で答えた。
「あれ。カシオ……ペア、そう、カシオペアの社員ですよ。名前忘れたけど」
 巴の視線の先には日下部がいた。民家を挟んだ向こうでしゃがみこんで何かをしているが、民家の間の隙間を通して見えているだけなので、何をしているのかが全く分からない。
「大声出すなんてどういうことよ」
 恵がたしなめるように聞くと巴はもう一度大声で、
「恵さん、クロちゃん発見!」
 と、どう見ても日下部に聞こえるように怒鳴った。
 日下部がやっとこっちに気付いて、民家の間の隙間から同じようにこっちを見た。巴は得たり、とばかりに更なる大声で、
「こっちこっち、クロちゃんがいますよ!」
 叫ぶと共に恵の手を引っ張って駆け出した。
「ちょ、ちょっと!」わけが分からず恵はよたよたと走る。
 走りだして恵はこれが巴のはったりだと気付いた。カシオペアを焦らせるためにクロちゃんを見つけた振りをしているということだ。そして、恐らくこれは成功したものと恵は感じた。
 しばらくして巴は日下部から十分に離れたところで歩を緩めた。恵の脚もゆっくりになって二人は歩いている。気が付けば少しずつ辺りが明るくなってきていた。時、既に7時。
「カシオペア、何をしていたのかしら」
恵は腕時計を見ながら呟いた。
「何でしょうね? うーん、あれ?」
 巴は急に裏声になったので赤面した。その視線は広場に向けられている。
「あ、犬……」
 恵も同様に広場の犬の群れに気付いていた。そこにはドーベルマンのみならず、セントバーナードもいたのだ。

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第二話 Novel H-SHIN's rooms 第二節

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