いよいよ土曜日がやってきた。気持ちよく目覚めることの出来た私は青山のスタジオに随分早く来ちゃった。9時集合だったんだけどまだ8時なのよね。どうしよう。
土曜日だからこの時間になっても道路に車は殆ど走っていない。空は明るくなってきているのに街が眠ったままなのがおかしくって、私だけのものになったみたいな気もして広い道路のど真ん中を歩いてみたりした。どのくらい歩いたんだろう。多分5分くらいのはずだけど信号も無視して歩きつづけて遠くまで来ちゃったみたい。別に道に迷ったわけじゃないから、振り返ってまた歩き出せば戻れる。スタジオの場所もわかってるしね。
そんな私の方に車が1台やってきた。通り過ぎるんだろうと思ったらその黄色の軽自動車はどんどん私の傍に向かってきて、止まった。車の窓が開いて運転していた女が私の顔を見て、
「あ、やっぱり品川さんだ」
と言うので何事かと思って女の顔を良く見てみた。それはちょっと嬉しい顔だった。
「あっ、木島さんだね!」
「覚えてくれてた?」
「もちろんっ」
それから私は木島さんに言われて車に乗った。どうせ近くだから、とタカをくくって乗ったのに木島さんは私の訊かれたくないことを訊いてきてしまった。
「品川さん、こんなに早くこんなところに…?」
浮かれていた、なんていうのはやっぱり「モデル→女優」経路予定の私としてはダサい。ってことで、
「ウォーキングの練習!」
それを聞いた木島さんはなんか含み笑いをしてる。
「その含み笑いは何?」
ちょっとムッとして訊くと木島さんはハンドルをきりながら大声で笑った。
「だって、私なんか浮かれて早めに来ちゃったんだもん。同じなのかなって思ったら、品川さんの理由に負けてるんだもん! ははははっ!」
へぇ、浮かれるんだ…。
でもって、スタジオに戻ってきた。
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僕が青山のスタジオに着くと、既に木島さん、桜田さん、「ジャンヌ」のスタッフ、そして品川がいた。でもまだ石川君は来ていないようだった。時計を見るとまだ8:38だ。僕が一番乗りになってしまうんじゃないかと思っていたのだが、それは取り越し苦労だったようだ。品川に僕がはしゃいでいると思われたら後々何を言われるか分かったものではないから慎重にならざるを得ない。それに…
「お、マユも来たか」
突然思いがけない人物の声を聞くと、その声の主が誰なのか分かっているはずなのに「そんなはずはない」という思考のせいかパニック気味になってしまう。もしかしたらそれは僕だけなのかも知れないが、パニックになってぐるぐると周りを見回した。
「おい、俺を忘れちまったか?」
後ろに二村がいた。まさかそんなことは予測していなかった僕は驚くというかあっけに取られた。
「え、来てたの? ……。…俺はマユじゃなくてマサヨシ。真由」
「何だよ、見に来ちゃいけないのか? お前の勇姿を見に来てやったのに」
二村はさも当然であるかのように腕組をして立っている。
「だって二村は編集部じゃなくて事務職だろう。何が目当てなんだ?」
それに勇姿と言われても僕はモデルじゃない。モデルが品川なのは言うまでも無い。
二村は引きつった笑顔で、しかしいつもと同じいいかげんそうな言い方で答える。
「目当ても何も、編集部にお前を紹介した責任って奴だよ。別に仕事をサボって来たわけじゃないんだから心配には及ばないぞ」
それから二村は僕の方に手を回して小声になった。
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取材スタッフが騒がしく動き始めて、白い一枚壁の周りの明かりが点いた。カメラマンの助手みたいな人がそのライトに向かって何かをかざしたりしているのをバカっぽく見ていた私を見た木島さんは私が緊張していると思ったみたいで笑顔で近付いて来て、
「ほら、品川さんがあそこでかっこよくポーズを決めるのよ。モデルですもんね。モ・デ・ル!」
私の意気込みが読まれている感じがしてドキッとしたけどバレたら嫌なんで私も笑顔で答えた。
「かっこよくなんてできないよ〜」
それから少し「談笑」ってやつをしていたらスタッフの人が来て準備をすると言うので着いていった。ついについに私もモデルだよ、モ・デ・ル! キャーッ。
「品川さん、頑張ってね〜」
頑張らなくても、私、かっこいいから大丈夫。
「じゃあ今度は両手を挙げて頭の後ろで組んでみて。そう、それ!」
カメラマンというのは皆こうなのだろうか。素人考えで想像していたのと寸分違わない話術で彼は品川に本物っぽいポーズをとらせていく。素人がここまで映えるのだから、プロのモデルと言っても大したこと無いのかもしれない。
後ろから木島さんの声がした。
「どう、西君? 彼女かっこいいよね」
「誰でもああなるんじゃないの?」
僕はそのまま思ったとおりのことを答えたのだが木島さんは笑って予想もしないことを言った。
「西君、何だか自分の彼女を見つめるような感じで見ているから、あの綺麗なボディラインに見とれていると思ったんだけど?」
「え?」
「ん?」
妙な間。そう思った刹那、僕は我に返った。
「僕には婚約者…」
言い出してまた我に返って言葉に詰まった。品川と二人のところを見られて逃げられて、行方不明。そんなのを婚約者と言えるのだろうか。そして僕も始めはうろたえていたくせに今となっては最後の手段であったメールさえも頭から殆ど消えてしまっている。二村がこの話を持ってきてくれたからなのかも知れないけれど、それで美奈子のことを忘れられてしまう程度なら僕は美奈子を愛してなどいな…愛? 好きだったのかな? それさえ危うい。ただ一緒にいたようなそんな感覚。
そして今度はボディラインという言葉で品川の一糸まとわぬ姿を思い出してしまった。う、薄い光の中で彫刻のように見えた美しい裸身、特に胸の辺りが勝手に頭の中を占めてきた。
「よーし、品川君いいね!」
悪趣味に見える格好のカメラマンの声でまた我に返って、眼前に不思議そうな表情の木島さんがいることに気付いた。目が覚めたと思ったらそれもまた夢、そんな気持ちの悪い感覚に僕は陥っている。
そう、それに二村が僕に小声で言った「取材が終わったら木島さんを食事に誘え」という言葉が喉の小骨のようにつかえているのだ。気晴らしでもしろ、っていうことなのだろうか?
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「いや〜、素晴らしい。専属モデルに欲しいくらいだよ」
グラサンを頭にかけて黒い革のジャンパーと同じく黒い革のパンツを履いた背の高いカメラマンはカメラから視線を外して、そのカメラをアシスタントに渡すとグラサンをかけて私に握手を求めてきた。カメラマンのこの言葉は私のことを言ってるのよ。素晴らしいんだよ、私。分かる? あ、グラサンってサングラスのことね。
「あ〜、そうなら私会社辞めちゃおーかな!」
「お、勇気あるね」
このカメラマンってどのくらい有名なんだろう?
「だってジャンヌの専属モデルに欲しいって言われたら断れないしぃ」
かなり本気で答えていたところに取材をする30代くらいの女の人が来た。
「またぁ、ヒデキそんなこと言ってモデルにするんじゃなくてプライベート写真撮るんでしょうが」
カメラマンの名前はヒデキね。記憶完了! これをつてにするわけですよ皆さん、世の中の渡り方ってこういうものよ。まあ私を見習ってみてよ、うんうん。心の中でちょっと踏ん反り返っちゃうね。
ヒデキというカメラマンは照明のポールに手をかけて、もう一方の手をいい加減に振って、
「馬鹿言うな。本当にモデルに欲しいんだよ」
と言い返した。
言い返された青いスーツ姿の女は悪戯っぽい笑い方をして、
「そうかいそうかい」
と言ってから私のほうに寄って来て小声で耳打ちした。
「気をつけな。あいつにモデルにしてもらえる娘なんてほとんどいないんだよ。喰われて終わりさ」
一瞬その意味がわからなくてボケっとしていたのでその女が去っていくのに気付かなかった。意味が分かったときにはもう女はマユ君たちの方にいた。…年増の嫉妬だね。
僕と木島さん、桜田さんそして二村はベンチに座って品川の撮影状況を見ていた。その間木島さんと桜田さんは楽しそうに話をしていたが、その内容を聞いてみると、
「木島さんがチーフだっていうのはびっくりしたわよ」
「そう? 結構恐がられてるんだけど」
「あんなに大人しい感じの娘が鬼チーフかぁ。凄いわね。私なんて見かけが大柄でそれだけで勝手に恐がられていて結構寂しいんだよ」
「えー、桜田さん全然恐くないじゃない」
「そうよね。そういってくれるのはまともな人だけね」
そして二人で小さな声でクスクスと笑いあった。うん、いかにも女性の会話という感じだ。…いや、品川も美奈子もそういうタイプじゃないな…。
「不思議ねぇ、西君」
急に桜田さんに話を振られて僕は相変わらずの間の抜けた表情になってしまった。隙の無い男になりたい…。
「えっと…」
桜田さんは僕の隣の木島さんを覆うように中腰で立ち上がり、木島さんの頭上から大きな瞳で僕を見つめて、というより飲み込みそうな勢いで、
「だから、マユ君という男性に出会うと女性も変わるんだねって」
と言う。一方木島さんは「そんなんじゃないって」と困惑した様子で否定するように僕に背を向けて桜田さんに向かって両の手を振っている。
僕は意味が全く分からない。発することが出来たのは
「ん?」
これだけ。桜田さんが呆れたように大きくてを振る。殴られるんじゃないかと思って思わず身を引いてしまうと桜田さんは更に呆れて木島さんの方を向いた。
「本当にリーダー西君といるとカッコいいOLに成長するの?」
ん? 木島さんに会ったのはつい一週間前だけど…どういうことだろ?
木島さんが少し怒った様子になって桜田さんに言った。
「西君と付き合ってなんていないわよ。ただの一度も!」
力強い否定の仕方、僕が見習うべきものだ。これが出来れば、これが…ここまで強く否定されると随分と悲しい気持ちになるのだけれど、それって僕が軟弱なのだろうか。きっとそうなんだろう。
二村はないがしろになってさぞつまらないだろうと思って桜田さんの向こうに座っている二村を見やると、こいつ逞しい。木島さんと桜田さんの会話に耳をダンボにして聞き入っているではないか。思わず苦笑いをする光景だ。こういう奴だから何か憎めない。
そんな折、品川の撮影が終わった。カメラマンが、
「いや〜、素晴らしい。専属モデルに欲しいくらいだよ」
などと無意味に品川をおだてているのが見えた。ああいう軽い感じの男は気にいらない。でも品川は本気にしているように見える。間もなく、そちらの方から青いスーツを着た女性がキリッとした歩調で僕達の方に歩いてきた。そして僕達を見回すと同時にはっきりとした声で
「では、取材をさせていただきます」
と、その場の空気を作り上げた。時間を区切る空気。
しかしまだ石川君がいない。そこで僕が女性にそのことを伝えることにした。
「あ、まだもう一人が…」
そのとき柱の影から僕の声を遮る声が聞こえてきた。
「よし、やっと俺達の出番だ」
姿を見せたのは石川君だ。けだるそうに欠伸をしてから桜田さんに向かって、
「あ、挨拶送れました。石川です。久しぶり」
と軽く頷きながら右手を挙げた。
さすがにここまで何かの主人公ばりの登場をされるとそこにいる誰もが呆然となるようだ。
「あ、石川君。…久しぶり」
桜田さんはそうとだけしか答えられない。
今度はその空気に石川君が戸惑ったらしく、ゆっくりと頭を掻いて一言だけ言った。
「取材…始めましょ」
To be continued.
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