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Story 1_4 |
昼食は昨日の「美香式」で済ませて、あとは帰宅までの時間を自由に遊んで過ごすこととなった。
問題はその後だった。何ともよく分からない事態になってしまった。
子供たちの行き帰りにはバスがあり、殆どの子がバスを使っている。今日から美香もバスでの園児の「返却」に同行することになった。園児は年少25人、年長29人の54人。少子化の波で幼稚園や保育園が減少した結果、東京でもこれだけの人数が集まるわけだ。従って各々の園児たちの家は離れていてバスでの送迎も楽ではない。バスは2台あり、年長と年少で分かれる。普段は真田と千葉で年長を送り返しているのだが美香もそれに加わるというわけだ。
バスに乗ったふじ組の園児たちが嬉しそうに座席で跳ねながら、
「今日はミカンも一緒に帰るの?」
という。ミカンとは美香のことで園児たちが勝手に付けたあだ名だ。2日目で園児たちに受け入れられたのはリサとしても驚くことだった。それはともかく美香は園児の質問に笑った。
「あはは。私は帰らないよ。みんなをお家に帰したら真田先生と千葉先生と一緒に幼稚園に帰るの」
「え! 幼稚園がお家なの!?」
それに呼応して爆笑が聞こえた。
「だっははは」
千葉だった。
「面白いこと言うね。先生たちは幼稚園に帰った後に家に帰るの。でも園長は住んでたりして」
それに対して真田が眉をひそめたのをリサは見逃さなかった。
ターゲットさんは真面目なのね。
問題はこの後だった。
初めの降り場が見えてきてバスが速度を遅くし始めた。美香は運転席の隣によたよたと歩いていき、フロントガラスから前を伺ってみる。ふじ組の3人がここで降りることになっていて、丁度3人の母親らしき人物が降り場で待っているのが見えた。運転手もそれを確認して横につける格好で停車させた。ここは挨拶の意味も込めて美香が3人の園児を降ろすことにする。あらかじめ真田から言われていたとおりに完全にバスが止まってから園児たちをバスの先頭部に呼ぶ。ただ、美香は誰がどこで降りるかなど分からない。名前さえ完全に把握できてはいないくらいなのだから。勿論、まだ2日目だということを思い出せば当然のことではある。
「えーっと、ここで降りる人は誰かな〜?」
園児の自主性に期待、というところのようだ。真田の方を見ると特に呆れた様子などは見受けられないので問題なさそうだ。「何なんだこいつは」という具合で嫌われては元も子もない。まだ仕事のスタート地点にさえ立っていないのだから十分に気をつけないとならない。
美香の問いかけにちょうど3人の園児が元気よく返事して駆けてきた。
「はいはい、元気でいいけど、転んだら危ないから歩いておいでね」
その間に運転手が入り口のドアを開けておいたのでスムーズに園児を降ろすことが出来た。3人の母親たちが自らの子供を迎える。ここまでは普通の光景だが、この先が違った。母親たちが美香を見るなり噛みついたのだ。
真面目そうな一人が美香に言った。
「ちょっとあなたね、新しくきた人っていうのは」
「はい。花村美香と申します。まずはふじ組さんの御手伝いということで働くことになりましたのでよろしくお願いいたします」
すると別の母親『B』が、
「お手伝い? お手伝いならでしゃばらないで」
ものすごく怒った様子で言うが、リサには何のことか分からず戸惑っているともう一人『C』が続いた。
「お弁当の件よ。余計なことを子供たちに教えないでもらえるかしら」
「余計なこと、ですか?」
「そう。嫌いなものを好きなものと一緒にして食べるなんて、おかしいでしょ」
そして『B』。
「うちの子なんか、『どうしても食べれないものは食べなくていいんだ』って聞かないのよ。誰がそんなことを教えたのかと聞けば新しい人だって言うし」
「食べれない」じゃなくて「食べられない」だろうと思いながら真田を見ると真田も困った様子だ。美香は、リサは考えた。
「大変申し訳有りません。以後気をつけます」
そして屈んで『B』の子供である園児の頭を撫でながら、
「卓人君、嫌いなものも食べられるようになろうね。ちょっとずつでいいから、ね」
と諭し、続いて立ち上がり、先の母親『C』には
「好きなものと混ぜてでも食べられるようになったのはいいことです。そうやっても食べられないお子さんのお母様には羨ましいことです
よ」
それには卓人の母親も賛同らしく、
「そうよお宅のユウちゃんは食べられるんだから。タクは食べないのよ」
「何でもケチャップ掛けるのよ?」
その『C』の言葉に『A』が怒り気味に割り込む。
「食べるならいいわよ。死にはしないんだから」
「何ですって!?」
「あなたは贅沢よ。いつもそうじゃない。旦那のボーナスが少ないとか
言っていたけど、出るだけましじゃない!」
話が突如脱線の様相を呈してきたので、3人の迫力に圧倒される真田の腕を美香が引っ張りバスに乗せ、すかさず千葉が運転手に「出してください」と言う。バスは静かに動き出し、3人の喧嘩を忘却の彼方に吹き飛ばそうとその場をあとにした。そんな雰囲気でも3人の子供たちはバスに向かって元気よく手を振っていた。
「みか〜ん、またね〜」
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この後は驚きが3人を包んだ。行くところ行くところで母親同士で意見が対立していたのだ。先ほどはリサが故意に母親たちを対立させるように持っていったが、その後はそんなことをするまでもなく対立していた。
「うちの子は人参が食べられるようになったのよ。感謝してるわ」
から、
「無理にでも食べさせて欲しいわ」
子供たちの結果同様に十人十色の反応があり、その意見の違いがもとで小競り合いが起きた。美香を受け入れるか否かの対立と言ってもいい。
子供たちの対立は未然に防げたものの、親の方がこうだとは…。それを耳にしていたゆり組の子たちの親の間でも論議が起こっていたが、初めこそ耳を傾けていた真田たち3人だったが、どこでも同じ状態だと嫌気がさしてきて取り合わなくなっていった。そして幼稚園に戻ると真田が言った。
「けっこう大事になっちゃったみたいですね。僕はいい指導だと思ってるんですけどね」
美香はその言葉を素直に受け入れた。
「ありがとうございます」
そしてお茶を真田と千葉に注ぐ。それを見ながら千葉が言う。
「でも美香さん凄いよね1日で教育議論を巻き起こしちゃうんだから」
「そんな、偶然だし、褒められてるわけでもないし…」
それから10分くらい話をして千葉が帰っていった。すると途端に真田が話をし始めた。それも急に話題を変えて。
「突然なんだけど、もし許嫁とかがいたらどう思いますか?」
今回は向こうから勝手に話が舞ってくる感じでリサは不思議な感じがした。相手が財界の大物だったりするとこちらの考えが見透かされたように本題を突きつけられることもあるが、「普通」の人の場合はそういうことは滅多にない。
「許嫁? そんな言葉、滅多に聞きませんね…そういうのって子供のうちに決められるんですよね?」
「ええ。あ、いや、多分」
「子供のうちから知り合いなら気は楽ですね。でも、初めから決められちゃうなんて嫌ですね。…どなたか許嫁がいるようなお知り合いでもいらっしゃるんですか?」
真田がうろたえたように見える。
「あ、いや、何と言うか…」
「憧れとか?」
本当のことを知っているのに無邪気な質問をしているような雰囲気で言う。リサの、というより女性の得意とする技だろう。男が同じことをしても女を騙すことは出来ない。それを出来る男がいるとしたら、結婚詐欺師の類に違いない。
美香の言葉に真田は困った顔になり、それもまた爽やかなのだが、しばらく考えて言った。
「憧れ、じゃなくて、その…困っている友人がいるんだ」
「あら、さっきは知り合いじゃないって言いませんでしたっけ?」
ちょっとイタズラっぽくわざとらしい上目遣いで言うと真田は口ごもったようになってしまった。そこでフォローを入れる。
「あ、ごめんなさい。その方のことを思って否定されたんですね。すみません」
長い髪の毛を正して姿勢も正す。その様子に対して真田はむしろ自分が悪いと言うように両の腕を前に出して手を振り美香の謝罪を打ち消そうとした。
「あ、いや嘘を付いた僕が悪いんですから」
一方美香は「そんなこと…」と呟きながら首を軽く横に振り、
「そのご友人は何を困っているんですか?」
本題に踏み込むことにした。でも控えめに。すかさずフォローも入れてみる。
「あ、勿論よろしかったらでいいんですけど話していただけませんか?」
真田は迷った。ここで自分のことをさも他人のことであるかのように話していいものか、と。もし話し始めたら最後まで架空の知り合いのことであるように芝居、芝居とまではいかないが偽らないといけない。偽り続けることには抵抗があり、しかし美香は信用が置けていいアドバイスもくれそうだという思いもある。しかし、その美香を騙すことになるのはもっと抵抗が感じられてしまう。
美香、リサにはその様子が手に取るように分かっていた。男の気持ちを手のひらで転がせるというのもこの仕事のもう一つの楽しみである。放っておくのも面白いが、それでは2週間という短すぎる期間で目標を成し遂げることは出来ないので…。
「無理にとは言いませんから…お茶入れ替えますね」
つっぱねるという勝負に出た。だがリサにとっては勝負ではない。経験から次どうなるかが分かっていたからだ。
「あ、待って」
真田は網に掛かった。
「彼、本当に悩んでいるから聞いてくれませんか?」
その言葉に、自分と真田の湯呑みを持っていこうとした美香は真田に向き直った。
「分かりました」
美香の笑顔に真田は安心した様子だ。
「友人は5歳の時に…
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カーテンが締め切られている、ほの暗い部屋にショートヘアの女の笑い声がこだました。
「きゃははははっ!」
もう一人のロングヘアの女はその笑い声に同調して笑い、しかしながら慎重な、特別感情を感じさせることもない姿勢で訊いた。
「それは失敗してもあんたの言うとおりなんだろうね?」
「……」
言われた女はムシャムシャと汚らしく食べていたパンを部屋の壁に向かってブン投げ、顔を歪ませてロングの女を睨みつけた。
「しつっけぇなぁ、あんた。大丈夫さ。元本保証だ。それにまだ金は1割しか払ってないんだ。ドロンされても問題ない。ま、ドロンさせないよ」
するとロングの女は間発入れずに自分の気持ちを言葉にした。
「あたしはハイリスク・ノーリターンは嫌だからね。ハイリスク・ハイリターンも嫌。あくまでノーリスク・ハイリターン。これ以外は許容されないよ」
「分かってるって。それはあたしだって同じ。とりあえずはうまく行くことを願うしかないって」
ロングヘアの女は納得したようにゆっくりと立ち上がった。
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リサは意外な事態であることを知り、自分の耳を疑った。
一方、真田がお構いなしといった様子で話を続けようとしたのでリサは慌てて止めた。
「それはつまり、つまりですよ、…許嫁がそのご友人に片思いっていうことですよね?」
簡単に言うと真田は許嫁が気に入らないらしいが、その実相手は真田にべた惚れらしい。そのくせ結納みたいなことは中学校卒業と同時に済ませているという。つまり結婚は約束されているようなものなのだが…。
意外にもなかなかの演技力で自分のことを他人のことであるかのように語った真田は席を立ち、美香と真田の湯飲みを事務室の洗い場に置きに行った。
真田から許嫁を引き離す必要はないことが分かった。が、むしろ事態は悪化していると言える。許嫁と結びつきたがらない真田を依頼者は惹きつけることが出来ないわけで、それではいくらリサがその美貌で惹きつけてもその先、依頼人にその視線を向けることなど無理なことだろう。
リサは方針を変えるべきかもしれないと思い始めていた。やっぱり暗殺でないと性に合わない。あたしは…誰を殺そうか。ヤスを殺せばこの件から脱出できるな…
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翌日の朝、美香は一度布団から起きたものの、
「あん…」
と少しどころではなく随分と色っぽい声を出すと、トロンとした目のまま布団を自分の首のところまで引き上げてバタンと倒れ込んだ。そして再び静かな寝息を立て始めた。
美香はバスで園児を迎えにいくのが億劫になっていた。理由はもちろん昼食の時の美香の指導に対する親たちの反発だった。賛同するものも同数いるが、これは面倒なことになってしまったと美香としては非常に気になるところだった。
一方でこうなったことで園内における美香の存在が明らかなものとなり、仕事がしやすくなったとリサとしてはほくそ笑んでいた。二重人格の場合は二つの意識が共存しない。この場合、美香の思考とリサの思考は同時に一人のこの女の中に発生しているため、二面性と表現するのが正しいだろう。
テーブルの上にある携帯電話が振動しだして低周波の不快な音が聞こえてきた。美香はうんざりしながら起き上がり、ふらふらとそちらに向かった。
「はい…」
「あ、私、千葉だけど。今日はバス送迎しなくていいよ」
「え?」
「今日はまだ父兄に文句言われるだろうから、ね」
「でも、そういうわけには…」
美香がさっきまで思っていたことと逆のことを言うと千葉は、
「園長命令なのよ」
と、本気とも冗談ともとれる言い方をした。美香が何と応えるべきかと考えあぐねていると千葉は続けた。
「別に告げ口って云うことじゃないのよ。ただ、あなたが気にしているんじゃないかと思って、勝手にだけど園長先生に相談したの。で、ほら、出勤したくないなんて思ってたとしたら早く教えてあげたいと思って…あ、もうこっちに来てる?」
千葉は幼稚園の近くに住んでいるため、いつも早く出勤しているようだ。その千葉の質問に正直に答えるべきか否か美香は一瞬迷って、
「あ、うん」
嘘をついた。
「ふーん。……」
「何?」
「……」
「もしもし?」
「まだ家でしょ?」
「えっ」
「家にいるでしょ」
「え、あ、あっ?」
「図星でしょう」
「あ、いや、う、…うん」
美香が観念して答えると千葉は驚いたような声を上げた。
「嘘!? え、ホントに? やだ、適当に言ってみただけなのに〜。まさか、美香さんがサボろうとしてたなんて、へぇ…」
正直、リサは焦った。自分ではない別の人物である美香がどう思われようと実際大したことではないのだが、万一その小さいことが仕事に響くようでは困るため、言動には気をつけないといけないとリサは思っている。もちろん、千葉の今言ったことは全然問題ないのだが、リサはそれでも何か嫌な感覚を覚えた。かりそめにしか自分がいないところ、例えば知った人の全くいない海外などであれば自分の人格などそれほど気にもせずに行動が出来るのだが、2週間という短期間でも偽名とは言え、美香と名乗って生活する場に於いては人格というものが気になるのだ
ニいうことをリサは今はっきりと感じた。
「私、ちょっとまだ生活に慣れていないのかな。寝坊しちゃった。恵津子さんが電話してくれて助かった。ありがとう。うん、うん、はい。分かった。じゃあね」
電話を切り、リサは呟いた。
「体裁を気にして嘘まで…だから人間は…」
嘘をついたのが自分としてなのか、美香としてなのか自分でも分からずリサは苛立った。
「あ」
本音を心の中でなく口に出して言った自分にリサは驚き、急いで美香の顔に戻って身支度を始めた。
本当の自分など、表に出すものではない。自分でも本当の自分がどうだったかなんて忘れてしまうくらいに奥深くに追いやってしまわないとそれが弱みになる。
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園児たちは朝から元気だ。
「ミカンおはよー!」
「おっす!」
こういう雰囲気にはリサでさえも笑みがこぼれる。
「元気だね〜。おはよう!」
多くの子供は自分を偽らない。それが自然。あたしはどうだった? そんなことどうでもいい。
真田がこっちに来た。
「ちょっと…」
「はい?」
真田に呼ばれて階段の踊り場に来ると真田が困った顔をした。
「昼食の件、僕は凄くいいと思うし、正しいのが花村さんなのは間違いない。でも、父兄の中には今でも花村式を快く思っていない人がいるんだ」
「それなら、今まで通りに…」
「それでいいかな…?」
どうやら花村式を止めたら美香が落ち込むだろうと気を使っているようだ。
「もちろん!」
敢えて元気に答えると真田は改まってさっき以上に済まなそうな、それでもいつもと違って丁寧ではない言い方をした。
「ごめん。貫き通せなくて。弱くて、ごめん」
淀んだ空気の流れ。美香が一掃する。
「え? 父兄に従うのは弱いことじゃありませんよ」
にっこり笑って真田を安心させたが、続けて、
「それより、父親に『許嫁なんて勝手に決めないでくれ』って言えないご友人のような人を弱いっていうんです」
真田を絶句させた。
「真田さん、ほら、この仕事は園児から目を離しちゃいけないでしょ。戻りましょう」
「あ、ああ。そうですね」
教室に戻ると園児たちが騒がしい。やはり目を離すのは危険なのだ。本当にほんの少し離れただけだというのに。何故かふじ組の教室にいる千葉が2人を見つけて急いで向かってきた。
「2人とも、どこに行っていたんですか? 折角2人いるんだから、一人は残っていなくちゃいけませんよ。事故が起きてからでは後の祭りです!」
真田がさっきと同じく空気が淀むような謝り方をして千葉を困惑させる。それに気付いた美香は慌てて、「何があったんですか?」
と、話題を変えた。
「あ、そう、花壇、チューリップだって」
「え?」
「私も分からないのよ。ここを離れられなかったから」
急に真田が機敏な動きで教室を突っ切って庭に出ていった。上履きのまま。
美香はそれを見て追おうとしたがふとあることに気付いて千葉に向き直った。
「バラ組さんの方は誰もいなくて大丈夫?」
「あ」
「こっちはいいから戻って!」
「うん!」
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