「おい、待てこの野郎!」
という言葉に振り返ってみると10メートルほど向こうで屈強の赤みがかった色黒の異邦人が何かを手に、それをこちらに見せるように振っていた。その姿は正に仁王立ち。偏見と言われかねないが、恐い。国際社会などと言われていても、異邦人を間近で見る機会などそうはないから慣れていないわけだ。
「オイ、マテコノヤロウ」
へたくそな発音でまだ言っている。……こっちに向かって来た。
「!」
私は後ずさりするしかなかった。それに合わせるかのように向こうの歩みが早まる。私の逃げ腰の後ずさりも早くなった。当然のように向こうも早足になるという具合だった。
「う、」
いたたまれず私は振り返って逃げ出した。
「オイ、マテ!」
大きな声で怒鳴り、異邦人は追いかけてきた!
私は会社相手の文具のセールスマンで、今日は新宿に来ていた。一仕事終えて携帯電話で社の方に連絡を入れ、気持ちよくもう一件片づけようとしていたところにあの異邦人に声を掛けられたのだった。
背広姿で逃げるのは容易じゃなかった。革靴だってただでさえ履き良いものじゃないから辛いものだった。それでも私は路地を逃げ回るしかない。
「オイ、マテ、コラ」
異邦人はどんどん迫ってきた。どうして追いかけてくるんだ!? もしかして縄張りを侵したとか、この服装が気に入らないとか……。
「強盗か!?」
走りながら思わず呟いたその言葉に自分で勝手に恐くなってしまった。それに伴って足が空回りしているような感覚に襲われ始めた。よく、夢ではなかなか上手く走れないことがあるが、現実にこうなるとは思わなかった。
「いや、夢か!?」
「オイ、マテコノヤロウ! フザケンナ!」
その声で、夢ではないことを皮肉にも彼が気付かせてくれたようだ。
夢じゃないのだから必死で逃げるほかない。何時の間にか私は新宿駅近くの大通りに出ていた。周りに人が増えるが助けてくれるわけがない。私だってそんなもの助ける筈ないから。
気が付くと、人だかりが出来ているところに迷い込んでいた。
「どいてどいて!!」
と人を押しのけて進みながら、自分の行動を呪った。無理矢理行かなくたって、紛れ込めば良かったのに……。
「ドコニイヤガル、コノヤロウ」
もう追いつかれたか。人込みで向こうはこっちを見失ってくれたようなので、そそくさとそこを抜けた。
「ふぅ」
思わずため息が出た。疲れて少しかがむと、擦り切れてしまった私の革靴が目に付いた。
「うわぁ、ひでぇ」
走ったせいで擦り切れたらしい。結構気に入っていた革靴だったのに。
気を取り直して次の取引先であるB玩具に向かうことにした。幸い、時間には余裕があったのでゆっくりと向かう。
B玩具に行くには来た道を戻らないといけないが、戻ってはさっきの男に見つかってしまうので遠回りで回避することにした。
「あ」
あまりに必死で走ったために弱っていた靴の底が遂にめくれてしまった。何処かに寄って買わないといけない。
「こちらでよろしいですか?」
私が試着してから脱いだ靴を店員が手にした。
「ええ」
「かしこまりました。……今すぐお履きになられますか?」
ボロい靴を見られているわけだ。
「あ、はい」
ちょっと赤面する。
「あ、では、今お履きになっている靴はどういたしましょうか?」
「ん、んー、そちらで処分しちゃってください」
「はい承知いたしました。……20,790円になります」
私はいつものように定期券入れからクレジットカードを出した。
やっと次の取引先に行けるようになった。真新しい靴の履き心地を確認して一つ深呼吸をした。
何か嫌な予感がしたので振り向くと、最悪なことにあの異邦人がきょろきょろしていた。そして目が合った。向こうはこっちを認識するのに少し時間が掛かったようで、私が走り出してから、
「Oh,マテェ!」
という声が追いかけてきた。また走るのかよ!
「マテ、wallet!」
wallet……? アイツは俺の財布を狙っているんだ! とんでもなくしつこい奴に目を付けられてしまったものだ。
一体いつまで追いかけてくるんだろう? 走りながら時計を見てみた。
「あ、まずい!」
もうB玩具との待ち合わせ時間になる。仕方がないのでそのままB玩具の建物に走っていった。
やっとの思いでB玩具に逃げ込んで振り返ると、異邦人はそこで立ち尽くしていた。さすがに会社にまでは乗りこんで来られまい。
一仕事終えて、社に報告の電話を入れた。気持ちよく社に帰れる。B玩具を出て大きく伸びをした。
「コラ」
「あ」
私の上げた腕を異邦人が掴んでしまった。彼の事を完全に忘れていたので隙だらけだったに違いない。
異邦人はもう一方の、後ろに回していた手を前に出そうとした。殴られる!
「wallet」
強盗されるという恐怖心が私に力を与えた。屈強の男に腕を捕まれていたわけだが、無意識の内に男の腕をねじり返していたのだ。
「Oh!」
男が苦痛で私の腕を放した。その隙に私は逃げ出すことが出来た。とは言え、また走ることになってしまった。
「コラ、マテ!」
男は懲りずに追いかけてくる。私がそんなに金持ちに見えるのか。
疲れて足のもつれてきた頃に信号が目に付いた。点滅し始めていたのだ。
「しめた!」
私は慌てて長い横断歩道を駆け抜けて渡りきった。そして丁度男が信号に差し掛かったところで赤になった。最高のタイミングというわけだ。
「よし!」
逃げ切った喜びで私は思わずガッツポーズをしていた。車の流れで男の姿も見えなくなったのでその場を後にした。
しかし、程なく、何やら後ろの方でクラクションがひっきりなしに鳴り始めた。驚愕、異邦人の男は信号を無視してこっちに向かって来たので車が急ブレーキをかけて多重衝突が始まっていたのだ。
「嘘だろ」
私は精根尽き果ててその場に座り込んでしまった。男は堂々とこちらへ来る。
「オイ」
異邦人は私の手を掴んだ。殺されるのか!?
そして私の手に何かを乗せた。
「ん?」
それは私の財布だった。それが済むと男は満足そうに走り去っていってしまった。
どうやら私が落とした財布を渡すために追いかけてきたらしい。何だったんだ?
「……」
彼は周りの日本人に乱暴な日本語だけを教わっていたに違いない。とんでもない国際社会だ。
ところで私の目の前で起きている大事故は誰が責任を取るのだろう……私?
----- 完
執筆後記
くだらねー。単なる思い付きで書くとこうなるという悪いサンプルですね(笑)。ショートショートが続いていますが、「君は君のまま」の方をサボっているわけではありません。そちらも書いていますので待っていてください。